ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

人間らしさとは、過剰な無駄を出すことだ。

人間らしさを取っ掛かりに考えた。

 

何を持って人間らしいと言えるのか?

ふと、そんなことを考えた。

風呂で一汗流しながら、ぼんやりする頭で一考してみた。

 

 

目次

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1、不必要なことをすることが人間らしいのか? 

 

今日を生きるのに食事をする、当たり前のことを当たり前にする。

しかし、ただ生存するだけで言えば、栄養さえあればそれで良い。

消化が良く、腐っていなくて、栄養がある食べ物を食べれればそれで良いはずだ。

 

しかし、食事一つとっても、「美味しく」作ることに手間暇をかける。

栄養を取る目的から鑑みるに美味しい物を食べるというのは、無駄である。

 

私が一人暮らししていた頃は、正にそうした食事であった。

適当に買った肉を炒めたものと、卵を炒めたものと、野菜ジュース、それから白米だ。

それで栄養が取れれば、それに越したことは無い。

 

この無駄を愛する姿勢こそが人間らしいとする向きがある。

生きる上で不必要なことをするのが「人間」らしい、そうかもしれない。

しかし、無駄を無駄と切り捨てることは人間らしくないのだろうか?

 

栄養を取れれば良い、とサプリメントのみで生活する人がいる。

その人を見て、「人間を楽しみを捨てている」と言う人もいる。

しかし、この行動も過剰であり、動物本来の「食べる」ことから逸脱している。

 

「生きる」ことに目の前の物をただ「食べる」と行為から、「より美味しい」と「より効率良く」は自然な行いからは外れた行動だろう。

ただ食べるだけ、食べれれば良い、そうした所からどちらも余剰にはみ出ている。

 

別の観点から考えてみる。

調理するのは、栄養バランスを取るためにしているとする。

だが、知性でその栄養バランスを知っている以前に、調理して食べた方が身体に良いと知っているのではないか?

つまり、本能的に察しているからこそ、より美味しく作ろうとしている。

そうすると、「美味しくする」のは、むしろ動物としての人間の行動として理に適っているのかもしれない。

 

しかし、そうなると他の動物と同様に「ただ生きるのに適していたから」と同義であり、人間らしいと言えないのではないか?

他の動物を人間の差異が認められなければ、何を以て人間らしいと言えるのだろうか?

 

人間らしさと言えば、欲望の深化、追求もある。

「より美味しく」するのは、欲望が肥大化した結果だ。

 

しかし、他の動物も欲望が肥大化する。

我が家の愛犬は食べ物が目の前にあれば、食べる。
それは無限に食べる。

食べ過ぎて吐いてしまうことがあるくらいに、自身の欲望に忠実だ。

 

動物の欲望と人間の欲望に差異はあるのだろうか?

表出するものが人間の方が高度化されているが、根底は同じ「もっと」である。

人間の動物としての特徴として脳が上げられるが、この脳の作りが複雑な故に、表出される欲望が多岐に渡るだけだ。

 

根底はただ欲望に忠実な僕であり、本質で言えば、動物と変わらない。

欲望の深化、追求を人間らしさとするのは否定する。

 

2、技術があるから人間らしいのか?

 

人間とは「技術」というの言葉を思い出す。

人間とは「技術を持った」ものと定義した、だったか。

うろ覚えの記憶を頼りに考える。

 

しかし、技術とは何であろうか?

例えば、箸で白米を食べるのも、一種の技術だ。

しかし、道具を使って食べ物を捕獲するのは他の動物もしている。

 

捕獲することと食べることは別だろうか?

いや、「技術」単体で考えれば、何かを成すのに必要な方法ややり方である。

手先の器用さを度外視すれば、何かを成すのに必要であったとする観点で言えば、やはり同義だ。

 

「人間の方が技術がより高度だ」、とするのも先述した欲望と同じである。

根底は欲望の肥大化であり、技術の深化、追求がズレただけだ。

 

今日の人間の世界は技術によって形作り出されているが、本質で考えれば、欲法であり、必要であった過程である。

自動車や家や、パソコンやSNSも人間だから成り得ているが、それを以て「人間らしい」と位置付けるのは違う。

人間だから成り得ているのは人間社会の中で、人間独自のコミュニティだから成立する。

 

これがハチ社会の中の、ハチ独自のコミュニティだったら、また話は変わってくる。

技術というのは枠組みの中で変わるのであり、動物、昆虫社会の「技術」が人間社会の「技術」と違うのは当たり前だ。

しかし、本質は成立するか否かであり、社会の中で成立する技術は動物社会、昆虫社会にもあり、人間だけの特権ではない。

故に、技術が人間らしいというのも違うようだ。

 

3、想像することが人間らしいのか?

 

ぼんやり考えても、答えらしい答えが得られない。

確固たる信念がないからだろうか?

いや、確固たる人生哲学ならある。

 

「今を楽しむ」、私の人生哲学だ。

楽しむことは、欲望の深化、追求の一つの形だ。

本質としては、動物と同じである。

 

ふと、動物は「楽しむ」ことを目指して生きているだろうか?

いや、「美味しい」を目的に生きている人間もいる。

技術を拠り所にして生きている人もいる。

 

種属とは、他の種属より圧倒的な物があること。

人間は、他の種属より圧倒的に思考する。

余剰の思考、「想像する」こと、これが人間らしさではないか?

 

動物として優位な部分が脳の複雑さであるなら、人間と動物、昆虫の差異は、想像力だろう。

「想像する」から「人間らしい」と結しても良いかもしれない。

 

4、1周回って同じ答え。

 

しかし、他の動物が未来予想をしない訳ではない。

熊が冬篭りするのに餌を食べるのは、冬には餌が無いことを知っているから。

本質としては、「技術」と同じ轍を踏まないか?

 

本質から考えれば、「技術」と「想像」は同じだろう。

 

どちらも共通して言えることは、「無駄」である。

動物より圧倒して無駄、余剰が多いのだ。

 

人間らしさ、とは他の動物、昆虫との差異だ。

ならば、他の動物、昆虫を圧倒するものは何か?

1周して、答えは出た。

 

人間らしさとは、過剰な無駄を出すことだ。

 

何とも無駄な考察であった。

ざばっ、と湯船から出る。

実に「人間らしい」、と思わず苦笑した。