「本当に好き」が分からないとき、どうしているのか質問箱で聞かれた。
「本当に好き」が分からなくなるのは、くらべた結果ではないだろうか?
私なりに突き詰めて考えてみた。
まず、私は「本当に好き」という感覚がないのかもしれない。
「好き」という感覚はあるが、何をもって「本当」なのか私には分からない。
私が「好き」だと感じる物事の多くは、私より知識がある人や、私より思い入れやエピソードがある人で溢れている。
私以上に「好き」と言える人たちがいるのに、私程度が簡単に「好き」と言ってしまって良いのか、疑問しかない。
そも、「好き」と言っている私の感覚、感性自体を私は疑っている。
私が「好き」だと言うのは、その場の空気に流されているだけかもしれないし、勘違いや思い込みかもしれない。
そう考えると、「本当に好き」など存在しないのかもしれないとさえ私には思えてならない。
しかし、私の胸の真ん中で、「ああ、好きだな」と感じることはある。
「今を楽しむ」ことが重要な私にとって、その瞬間の「ああ、好きだな」で十分なのだ。
「ああ、好きだな」と感じている瞬間、私は「今を楽しむ」ことができているからだ。
過去を振り返ったときも、振り返ったその瞬間に「ああ、好きだな」と感じられれば良い。
未来まで想いを馳せているときも、想いを馳せている瞬間に「ああ、好きだな」と感じられれば良い。
だから私にとって本当か、本当ではないのかは重要ではないとも言える。
例え、偽物の好きであっても、私の胸の真ん中で「好き」だと感じたのは確かなこと、と私自身が決めてかかる。
「本当に好き」は分からないが、「ああ、好きだな」と私の胸の真ん中で感じられたのであれば、それで私は満足だ。
故に、「本当に好き」か分からなくなっても、どうもしない。
ただただ、「ああ、好きだな」と放言するだけでござい。