蝉を取っ掛かりに考えてみた。
蝉の視点から蝉の死生観の妄想を語れる人とお酒が飲みたい。
Twitterでこう呟いた人がいた。
絶対に面白いので、私は諸手を上げてリプライを送った。
しかし、考えてみるに蝉の視点で蝉の死生観というのは良い切り口ではなかろうか?
蝉は儚い命の代名詞として使われることが多い。
そして、「1週間の命」と蝉の命を人間の視点で人間基準の死生観で語る場合がほとんどだ。
蝉自身の視点で考えた場合での蝉の生き方、死に様をどう考えているのか。
私は人間ではあるが、蝉にも蝉の矜持があるだろう。
少し、蝉の視点に立った、蝉の死生観について妄言を吐く。
まず。蝉の時間の捉え方だ。
小学生の頃の国語の教科書に、「ゾウとネズミは心臓の打つ速度が違うから、寿命が違う」と書いていたような朧げな記憶がある。
そして、「心臓を打つ回数は同じ」ということも書いていたような気がする。
何が言いたいかと言えば、感覚的にゾウもネズミも同じくらいの時間の流れに感じているのではないか?
例えば、人間がネズミになったとしよう。
人間基準で作られた時間の概念において、人間だった時にくらべて早く死ぬことになるが、ネズミの感覚で言えば人間だったときとほとんど変わらない感覚なのかもしれない。
日が沈むのがとても長くなったような気する、周りは忙しなく動き続けている気がする、などの自分以外の他者とくらべた時に生じる差異は感じるだろうが、単体で過ごす場合には、人間だったときと同じ時間リズム(と本人は感じている)で過ごすことになるのではないか。
そして、蝉と人間でも同じことが言えるのではないか?
即ち、人間が蝉になったとしても、人間時間の流れに反して蝉の体内の時間リズムの感覚は人間と変わらない、と妄想する。
仮に人間と時間感覚が同じならば、人間の平均寿命約80歳と蝉の一生は同じ感覚ということだ。
蝉の一生がどの程度か、ちゃっちゃか調べてみたら、大体5、6年の幼虫期を経て、成虫期1ヶ月ほどだそうだ。
ここでは幼虫期5年、成虫器1ヶ月、全5年1ヶ月を蝉の一生、人間の一生を80年と仮定する。
人間の一生は80年=960ヶ月、蝉の一生は5年1ヶ月=61ヶ月である。
蝉の1ヶ月は人間の約15.74ヶ月=約1年と3ヶ月と22日だ。
つまり、蝉は生まれてから最晩年の79歳と8ヶ月と9日に成虫へと羽化するのだ。
蝉の幼虫期は地面の中で過ごす。
逆を言えば、およそ79年間、地面の中でじっと息を潜めて蝉生を生きているのだ。
引きこもり生活、と似ているだろうか?
しかし、肝心なことを忘れてはいけない。
土に潜っている79年間、蝉は幼虫期、ということだ。
幼虫期ということは身体自体はまだ若い、いっそ幼いと言って良いかもしれない。
考えるに、蝉の一生は修行僧のそれではなかろうか?
禁欲的に、いずれ悟りを開くために、じっと地面で過ごす。
となると、成虫期、浮かした世界は解脱、ニルヴァーナと捉えているとするならば?
来る日も来る日も変わらない、景色もずっと土色、同じ食べ物、ひたすらに地面の中でじっとする毎日だ。
辛い日もあるだろう、悲しい日もあるだろう。
それでも耐えに耐えるのだ、何時か羽ばたく理想郷を夢見て。
蝉があれだけ騒がしいのは、あまりに世界が広くて叫ぶしかないのかもしれない。
身体全体でごちゃまぜになった感情をただ叫ぶしかなかったのかもしれない。
蝉の時間感覚にして、1年、思う存分に声を震わして生きている、と妄想する。
となると、蝉の視点における蝉の死生観は、幼虫期は深く自分を見つめる期間であり、ある意味で死んでいる状態なのだ。
そして、成虫期は、新世界への旅たち、過去生からの離脱を意味していて、ある意味で生き始めたのかもしれない。
同時に、幼虫期が一つの生であり、成虫期が一つの死も内包しているのではなかろうか?
今、死んでいるのと等しく生きていて。
羽化すると同時に、生き始めると等しくして死に始める。
生と死の逆転現象が起きて、悟りもクソも分からぬままに、蝉の一生を終える、かもしれない。
蝉は生と死を同時に感じながら生きている(蝉の視点)。
頭の中でずっと考えていた世界と、実際に目の辺りにした世界との差に打ちのめされていそう。
あと1年という時間感覚は、あと1年で終わることへの絶望感もありそう。
色んな感情でもう蝉自身も訳が分からなくて、実は助けを求めている可能性もあるやもしれない。
本当のところは蝉に輪廻転生しなければ分からない。
そも、今回は仏教的発想だった訳だが、西洋宗教、一神教における蝉の考え方もあって然るべきだ。
まだまだ深堀りができるぞ、とワクワクが止まらない。
Twitterで呟いた方と早く飲み交わしたい、と急く気持ちが強くなる7月下旬かな。