今もって「大人」とは言えない私だ。
年齢で言えば「大人」だが、若造の部類でもある。
そんな私が唱える「大人」になる定義を開示してみる。
「子ども」でも「大人」のように礼儀正しい子もいる。
「大人」でも「子ども」のような振る舞いをする人もいる。
しかし、見た目、実年齢の差分でしかない。
「大人のような子ども」は「子ども」であり、「子どものような大人」は「大人」である。
「大人」の定義において、社会の枠組みの中であることが前提だろう。
実年齢を隠したインターネットゲーム社会では、経歴の長さやランクの強弱が指標になる。
そういう意味では見た目も「大人」の大事な指標かもしれない。
しかし、「大人」になる、というのは、社会においての役割を全うできるかどうか、が視点にあるだろう。
「大人のような子ども」は礼儀正しい点から、社会の枠組みを守る、維持する動きを評している。
「子どものような大人」は子どもなら許された振る舞い、社会の枠組みに悪影響を与えると評されることが挙げられると感じる。
しかし、前述した通り、「大人のような子ども」は「子ども」であり、「子どものような大人」は「大人」だ。
冠婚葬祭で任されるのは「子ども」ではなく、「大人」だ。
「大人になる」とは、責任を負うこと、と一義で言える。
しかし、「責任を負う」ことがそのまま「大人になる」ことではない。
「責任を負う」と覚悟を決める子どももいれば、「責任を負う」ことから逃げる大人もいる。
だが、子どもでは背負える「責任」にも限界がある。
子どもはまだ精神が未熟で、無知で、真っ直ぐ過ぎる。
「責任」の請け負い方、捉え方をきちんと知っている人、それが「大人」だと考える。
「大人」になるのであれば、腹を据えれば「大人」になれるかもしれない。
しかし、それだけでは「大人」にはなれない。
「責任」を狡く背負えるのが、「大人」だと考える。
故に、「大人」になる定義は、「人生経験を多く積み、節目節目で腹を決めれる人間になること」だ。
相変わらず、理屈をこねくり回して適当なことを書く。
私が「大人」になる日は来るのだろうか?