気付けば20日も過ぎて、もうすぐ9月だ。
当ブログを書き始めたのは2016年9月3日だ。
あと10日程度経てば、丸4年となる。
4年も書いているが、相変わらずPV数は10PVから30PVを行ったり来たりしている。
元より収益化度外視、実に安泰である。
4年前にくらべて、多少書くのが早くなったかもしれない。
10年を一区切りとするならば、2026年9月3日がこのブログの節目となる。
もし、10年間、1日1記事を書いたら、3650記事は優に越えるだろう。
その99%は当記事と同じ、ただただ書くことに費やした、意味のなさで成り立っている。
最近、幸福と人生についての哲学を読んでいる。
まだ3分の1ほどしか読んでいないが、その中で「経過の違いで結果は変わらない」、つまり「どうせ死ぬのにこれが何になるというのだ?」という事実があることを指摘していた。
全く、その通りだと感じる。
何のために産まれてきたのか、人は人生に意味を求める。
しかし、人間の有限性、特に死はすべての人間があり限界がある。
例外は一切なく、余すところなく、すべては死ぬ。
それは努力して成功を収めた人も、怠惰に生きる人も、結果的には同じく死ぬ。
その人の経過がどれほどの差があっても、最終的な死は変わらない。
そうした時に、「これが何になると言うのだ?」と虚しさに気付いてしまう。
そうした視点で考えれば、当ブログは正しく「これが何になると言うのだ?」の極致ではないか?
何せ、努力からかけ離れ、成功から最も遠い位置に座している。
ただただ「継続する」ことに拘り、それ以外の意味さえ切り捨てている。
「継続する」ことはどこか「生きること」に似ている。
「どうして生きなければならないのか?」は誰も答えられないだろう。
「どうして継続しなければならないのか?」は私のちっぽけな拘りでしかない。
即ち、私の自己満足のために継続している。
今までの私では耐えられない、耐えるための新しい私を欲した。
ある意味で「生きるために継続している」とも言える。
そこに深い意味はない。
ただ、私の形成するのに必要だからしているだけだ。
小難しい理屈も必要だろうが、感覚として「私」の形成の在り方の一つが当ブログを継続することなのだ。
恐らく、通り過ぎてから気付くだろう。
2020年9月3日、当ブログはまた年を越える。
意味はない、ただ私が拘るだけだ。