人生の究極の目標は幸福になること。
本当にそうだろうか?
むしろ、幸福になれなくても良い、とするスタンスの方が良いのではないか?
人間は何故生きるのか、はそういう遺伝子設計であり、社会構造の維持するよう仕向けられているから。
一個人が幸せになるかどうかは問題ではなく、人間という種の戦略として、幸福を目指すようにされているだけであり、幸福そのものに意味は無い。
思考することに意味は無く、ただ淡々と日々を過ごせば良い。
しかし、そう言っても感情は御せない。
人間の発展には欲の高度化、深度化がある。
生命活動の維持だけでは収まらず、自己実現、自己承認の欲求が生まれ、それによって社会構造を発展させていった。
欲望と感情はセットで語られることがあるが、厳密に言えば別物だろう。
しかし、この感情のエラーが非常に多い。
幾らデバッグしても、次から次へと問題が発生する。
人間社会の維持、実生活において、感情の振り幅が大きいことはデメリットだろう。
逆に言えば、感情を振れ幅が小さければ、穏やかになる。
諦念、諦める姿勢は人生に必要だ。
即ち、幸せになることを諦め、人生の意味がないことを認めてしまえば良いはずだ。
そうしてただ目の前のことを淡々とこなせば、平穏な日々になると推察する。
しかし、前述した通り、感情を諦めるのは、容易ではない。
別のアプローチもある。
感情の熟成、情緒の完成を目指す。
いちいち傷付かない、怒らないためには、情緒の安定が不可欠だ。
人間の在り方として、感情をどうすべきかを考えればより良い人間社会になる。
とうすらぼんやりと考えた。
正しいかどうかは分からないが、アウトプットを兼ねて書き出す。
幸せになることが目的でなくても生きていける、私はそう考える。