病むことを取っ掛かりに考えてみた。
人間はどうして病むのだろうか?
質問箱に投げかけられた質問に興味深く見る。
聞かれてみれば、どうして病むのか、明確に答えられない。
人間はどうして病むのか、徒然に考えてみた。
「病む」とは、精神が正常ではなくなることを差すと推察する。
身体の病気を含めた場合もあるだろうが、その場合はウィルスや細菌が原因となるだろう。
精神が病む、健康ではないとなるのは何故だろうか?
何を以て「正常」であり、「異常」なのか。
基準は日常生活を営めるか、だろうか。
日常生活に支障が出るから、正常ではないと判断できるようにも感じられる。
いや、この段階は「障碍」ではなかろうか?
心や身体が病めば、日常生活を送れなくなるか?
否、微熱程度なら出社する人もいるし、心を殺せば日常生活は送れる。
劣悪な環境だから病むのだろうか?
しかし、何を以て劣悪なのかは個体差がある。
その固体、その人が「しんどい」、「耐えられない」と感じれば劣悪なのでここで劣悪を列挙しても意味がないような気がする。
そも、何を以て「健康」なのだろうか?
人生に対して前向きで明るいことが「健康」なのだろうか?
そうすると、私は「異常」だし、「不健康」になる。
間違っていない、私はネガティブ方向にポジティブだ。
心を病むことに腐心している。
狂っているが、人生は楽しんでいる。
物書きは少なからず病んでいた方が良いらしい。
健康な精神だと、振り切れないのかもしれない。
よく考えれば、当ブログの書いていることは健康な人ならとても恥ずかしくて書けないのではなかろうか?
日常生活や人生を全うすることを重点に置くと、健康だろうが病んでいようが関係ない。
しかし、健やかな人と病んでいる人は違う。
この違いは何であろうか?
少し考えて、望みではなかろうか、と考える。
健やかな人は望み多く、忍耐を要することにも望みから救われる。
病んでいる人は望みが少ない、または無いので、耐えられなくなる。
不幸耐性とも言えるものが、人間にはあるのかもしれない。
何を以て「不幸」かは、何を以て「劣悪」とするかに通ずるところがある。
客観的に見て悪いことでも、各固体の主観から考えれば良いことと捉え直すことができる点は似ているのではなかろうか。
私は幸せになることを諦めた人間であり、逆説的に幸せな人間だ。
主眼を「今を楽しむ」ことに集約し、過去と未来をその一点で結び、結果、人並みの人生は破棄したが、私個人は常に楽しんでいるからだ。
言い換えれば、病んだからこそ人生が始まったとも言える。
私が記憶する、最もストレス値が高かったのは20代であり、振り返れば、耐え難いことであった。
病んだからこと今の私ができた、と考えると、当時は受け入れ難いことが人を病ますのだろう。
人によって耐え難いこと、それが人によって違う。
人によって違うが、この世界は自分とは違う人間が多数いる。
自分とは思考も信念も生き方も全く違うの人種がいる。
離れていれば離岸の火事と他人事になれるが、自分のテリトリーに入ってくると話が変わってくる。
メダカの水槽の話を思い出す。
狭い水槽の中で一個体を苛め始める。
グループを作り、僅かに違う個体を排除する。
狭さはキーワードかもしれない。
自分の内に向かうことも病むことに一役買っている。
より狭く、より内側に、そうすることで病んでいくのだろう。
日常生活に支障が出るのは、人と関わることは世界を広げること、外側に向かうことだからだ。
買い物をするのも、ゴミ袋を捨てるのも、ある程度の人間と関わる要素がある。
僅かな人の、外側との接点がぷっつり切れてしまったら、それは生き辛い。
翻って、環境はやはり関係あるのかもしれない。
但し、劣悪な環境が条件ではない。
外側に体する耐性があるかないか、そういうことかもしれない。
人間に対して何かしらの望みを抱いている人ほど病むのかもしれない。
そういう観点でいうと、私は私自身に対しての見返りを求めていない。
私自身が勝手に生きているから、他の人も勝手に生きれば良いと考えている。
不幸耐性、というのは正しくなかった。
人間耐性、という方が良い。
人間に対するストレス値が振れ切れると病む、と推察してみる。
当たっているかどうかは分からない。
しかし、あえて言い切ってみる。
当座の私の思考の捨て置き場だ。
他者に望みを抱くから、人は病む。
他者は他者で動くのだ、私がどうこうできないのだ。
その人をコントロールできない、当たり前のことを受け入れられない。
そうして望みが絶たれ人は病む、と想像してみる。
他にも原因はあるかもしれない。
興味深い質問であるので、他の人の意見なども聞いてみたいものだ。
徒然にまとまりなく、私は今日も内へと逃げる。