何をしているときが幸せか。
幸せの定義は人それぞれ違う。
私の幸せは、ふとしたことばかりだ。
ある朝、夜勤から帰宅して、夕飯代わりの朝食を食べた。
昨日の夕飯の余りであるトンカツが大皿に乗っていた。
私はトンカツの一番端っこを濃厚ソースで絡めてから、頬張った。
じわっと広がる優しい脂の味を味わいながら、ぽつりと「しあわせだな」と呟いた。
それを聞いた母が思わず吹き出して、「そんなことでしあわせで良かったね」と言った。
私は首を傾げながら、お椀の白米を口に放り込んだ。
ある晩、友人の家にお邪魔して、宅飲みをした。
缶チューハイ500ml1本と梅酒の1lパックを半分以上、飲み干した。
時間は日付を越えて、私は随分と酔っていた。
机の周りで何故かぬいぐるみをもって会話し始めるカオスな状況になっていた。
私もぬいぐるみを脇に収めて、(ああ、しあわせだな)と考えた。
このまま消えてしまいたいな、と壁に寄りかかりながら考えていた。
何をしている時が幸せか。
何をしていても、私は幸せだと感じる瞬間があるだろう。
それはふとした時で、私の意識がどこか遠くに、しかし私の自意識はずっと近くにある瞬間に。
私の一面は能天気で楽観的、牧歌的な唐変木だ。
厭世主義で悲観的、自己嫌悪な無能も私だが、気を抜くとナチュラルに前向きになる。
私から私が遠退き、私に近付いて、幸せを感じる。
良くも悪くもない。
生理現象なのだろう。
一過性の不幸の忘却、それが幸せだ。
何をしているときが幸せか。
今、この瞬間、とも言えるかもしれない。
ただ感受するアンテナが機能しているか、電源が切れていないかだけの問題だ。
ふとした瞬間の幸せだけで十分だ、としみじみ考える。