勉強の本質的な意味とは何であるか?
はて、勉強の本質的な意味、そんなものがあるのだろうか?
にべもなく目の前の宿題や課題を片付ければ良いのではないか?
いや、真面目な人ほどドツボにはまるかもしれない。
どうして勉強をしなければならないのだろうか、とふと考えて、奈落に真っ逆さまに落ちてしまう。
可哀想に、多少馬鹿なら右に倣えで済むのに、余計な思考は手を止める妨げにしかならないのに。
よし、余計な思考しかしない私がちゃっちゃかと答えてしまおう。
学生のときから勉学という勉学から逃れてきた不真面目な私が答えるのも変な話ではあるが。
それでも、勉強の本質的な意味、あえて言い切ってしまおう。
まずは、インターネットの海に漂う、勉強の語源を紐解いてみよう。
諸説あるだろうが、ここでは下記のリンク先を参照した。
勉強は「勉め強いる」で、本来は気が進まないことを仕方なくする意味であった。
商人が頑張って値引きをする意味の「勉強」は、学問や技芸を学ぶ意味の「勉強」よりも古く、江戸時代から使われている。
明治以降、知識を得るために努力することが美徳とされるようになったことから、「勉強」は「学習」とほぼ同じ意味で使われるようになり、一般的に「学習」を意味するようになった。
「勉め強いる(つとめしいる)」、面倒な事柄をするのが語源にあると書いてある。
勉めるとは、精を出して仕事をすることや、無理や我慢をすることを差す。
強いるとは、相手の考えを無視して無理にやらせる、強制することを差す。
元々は商品の値引きとあるが、これは確かに面倒だ。
値引きするには、相手との交渉が必要だが、相手もなるだけ高く売りたいのだから難航する。
面倒な事柄ではあるが、仕事として成立させるためにはしなければならない事柄だ。
江戸時代からとあるから、勤勉であることが良いとされる時代背景もあるだろう。
室町時代から江戸時代初期に起こった「勤勉革命」なるものがあった、らしい。
日本人の国民性とも言われる「勤勉性」はこの「勤勉革命」を通じて培われた、とWikipediaに書かれていた。
続いて、明治時代以降、「勉強」の意味も変容したとある。
「知識を得るために努力することが美徳」とされ、「勉強」は「学習」とほぼ同じ意味となった。
「学び習う」、知識や技芸を身につける、繰り返し練習することとほぼ同じ意味となった訳だ。
軽い気持ちで調べてみたが、意外と勉強と日本人は根深い関係があった。
勉強の変遷を辿ると、現代日本人の精神の礎が見えた気がする。
しかし、現代、勉強の意味はまた変容しているのではなかろうか。
親から「勉強をしなさい」と言われるのは、多くの人が経験したことだろう。
学校からの宿題を面倒だなと考えながら、取り組む。
親からの指摘や、実際の行動は本来の「勉強」の語源的に考えると正しい。
しかし、本来は「商品の値引き」という生きる上で必要な行為であった「勉強」であるが、現在、「何のためにするのか?」が分からなくなっている。
社会に出た時に、何の役に立つか分からない、使わないかもしれない知識を「勉め強いる」してまで得る意味が見出せないのだ。
「何のためにするのか?」、実際の生と生活に結び付かないから出る問いだろう。
また、「学習」の側面から考えても有耶無耶になっているだろう。
「知識を得るために努力することが美徳」とする明治時代と違い、現代は上辺の知識や二次情報ならインターネットで十分だ。
深堀りする必要がなくなり、知識はそこかしこに溢れている。
「勉強」は形骸化しているのかもしれない。
しかし、「勉強」の本質的な意味としては、「学習」にはない。
即ち、何に対して「勉め強いる」のか、が重要なのだ。
元の語源から考えれば一目瞭然で、「本来は気が進まないが仕方なくする」とある。
どういう風に生きているかは人それぞれ違うが、面倒な事柄は多かれ少なかれあるだろう。
面倒だから、と後回しにしても、何時かは片付けなければならない。
私は、現代は何かを行動することが重要視されているのではないか、と考える。
知識を得るよりもっと手前、何かをするという行為が重要なのだ。
それは自分がやりたいことであり、その中身に面倒な事柄も含まれている。
面倒だ、しかし、やる。
ジブリアニメで有名な宮崎駿監督は確かこう言っていた。
「面倒なことほど大事なことだ」
勉強とは、面倒だがやるべきことをする行動だ。
あえて不真面目人間が言い切った。
面倒な事柄から逃げに逃げてきた私が言っても説得力が皆無ではあろうが。
逆を言えば、余計な思考ばかりすると私のような人間になるぞ、と脅しておこう。
面倒だ、だけどもやる。
そうした踏ん切りが時には必要だろう。
(実はここまで書いた文章が一度消えた。面倒だったが、書き直した私は偉い)
勉強の本質的な意味を適当に書き連ねて、終わる。