ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

尊敬できる人の条件とは、自ら考え、実践できる人だ。

「尊敬できる人の条件」とは一体、何であろうか?

尊く敬うことができる人とはどんな人だろうか?

そして、そうした人である条件とは、何だろうか?

 

ざらざらと書いてみた。

 

まず、尊敬の言葉の語釈を調べておこう。

「尊敬」とは、「他人の人格や行為を高いものと認め、頭を下げるような、また、ついて行きたいような気持になること。うやまうこと」だ。

端的に言えば2点、「頭を下げるような気持ち」、「ついて行きたいような気持ち」になる人が「尊敬できる人」だ。

 

他人の人格や行為を高いものと認めるのは容易い。

相手の良い点を見付ければ良いだけだ。

そして、それは人によって違うだろう。

 

人によって「尊敬できる」人は変わる。

それはその人にとって何が「良い」かはその人の価値観に由るからだ。

質問されているのは私なので、私にとって「高いもの、良い点」になる。

 

私自身は低い位置付けにいるので、誰でも大抵は「高いもの、良い」となる。

「短所は長所」、その人の悪い所も、良い所と捉え直すこともできる。

なので「他人の人格や行為」のハードルは相当低い、高いのに低い。

 

その上で上記に示した2点、「頭が下げたくなるような気持ち」、「ついて行きたくなるような気持ち」になった人間はどういう人かである。

「頭が下げたくなるような気持ち」で言えば、「頑張る人」である。

「ついて行きたくなるような気持ち」で言えば、「理知的な人」である。

 

重要なことだが、「頑張る人」と「理知的な人」はノットイコール、同じではない。

「理知的で頑張る人」も当然居るだろうが、「頑張る人」が「理知的」である必要はなく、「理知的な人」が「頑張る」謂れもない。

私にとって「尊敬できる人」のタイプが「頑張る人」と「理知的な人」の2タイプであるということだ。

 

さて、「頑張る人」と「理知的な人」である条件とは何か?

「頑張る人」は、「夢や希望があり、それに邁進している人」だ。

「理知的な人」は、「様々な事柄を自分の立地から現実的に考えられる人」だ。

 

書いていて、本能と理性のような話だな、と感じる。

本能と理性、これら二つで言えることは、「バランス感覚」と「内面の追求」がある。

そうして、それがそのまま私にとっての「尊敬できる人の条件」になる。

 

即ち、「本能と理性をその人の価値観に照らし合わせてバランス良く扱うこと」と「自分の立地や夢を把握するために自分の内面を追求していること」である。

 

「バランス感覚」はその人の価値観由来であることが重要で、周りから見て「暴走」でもその人にとって「理」が説明できるなら良い。

「怖じ気」と見られてもその人にとって「勇気」があるなら十分だ。

 

「頑張る」には、何がやりたいのか分からないと頑張れない。

「理知的」とは、己が分からないと何も言えない。

自分の内面を深堀りしている人は、それだけ素晴らしい人だ。

 

上記を一言にまとめるなら、あえて言い切る。

 

尊敬できる人の条件とは、自ら考え、実践できる人だ。

 

再度、これは私にとって「尊敬できる人の条件」であり、私基準である。

なので、絶対ではない。

相対的に「そういう人を尊敬できない」という人も居ても可笑しくないし、良い。

 

頑張る人に頭を垂れ、理知的な人に心奪われる私は、今日も今を楽しむばかりだ。