「学校のお勉強だけ出来ても意味がないと考えているが、どう思いますか?」
質問箱から、エッジの利いた質問が来た。
私とは相性が悪い質問ではあるが、さくさくと答えてしまおう。
質問者の中で「勉学」と「お勉強」は別物だろうか?
長い人生、学校のお勉強以外の知識や工夫は当然あるだろう。
ただ、「お勉強」が出来るのは立派なことだ。
私は学校のお勉強さえ出来ていない人間なので、まずお勉強だけでも出来ているのは、賞賛に値する。
授業は眠らず、家に帰っても宿題をサボらず、テストで良い点数を取る。
学校のお勉強が出来るのも1つの才能だ。
そうした才能であることを加味しても、「お勉強だけ出来ても意味がない」というのも1つの事実かもしれない。
しかし、「経験だけあっても意味がない」、「真面目だけ取り柄では意味がない」など、「意味がない」と切り捨てることなど無限にある。
私に言わせれば、須く、全ては「意味がない」ものと切り捨てないと都合が合わないと考える。
極論、「生きていても意味などない」のだ。
「学校のお勉強だけ出来ても意味がない」と切り捨てれば、「学校のお勉強さえ出来ていない私は最早、生きている意味もないのだろう」と。
当然、そうしたことが言いたい訳ではないだろうが、切り捨てるということは他の価値観を切り捨てることになるのだ。
それでも「意味」を求めるなら、自分で「意味」を設定するしかない。
質問者の考える「意味」と私の考える「意味」に齟齬があるのは目を瞑る。
何せ、私の考える「意味」は私が決めるものではないからだ。
私が生きた、私の学んだ「意味」は、私が死んでから後世の人間が評する戯れだと考えている。
私の今世に「意味」はなくても構わない。
ただただ「今を楽しむ」ことに注力し、手足を野に放り投げて、人生を大の字で寝転んで謳歌するのみ。
更に、お勉強だけでは足りない、不十分だと感じるかどうかはその人次第だ。
お勉強だけ出来て他がてんで駄目でも全く困らない人も実際いる訳だ。
そして、そういう生き方もあって良いはずだ。
意味がある人生でなければ意味がないのか、学校のお勉強だけ出来ても意味がないのか。
否、人それぞれ違った生き方で良い、学校のお勉強だけでもどう生きるかはその人次第だ。
私などはそう愚考する。