前回、「次の脚本は動機付けを明確にする」と掲げた。
そのつもりで次の脚本は挑む。
しかし、すでに手元にある書き上げた脚本はその限りではない。
理由として「私が描いた「面白い」はすでにその状態が完成に近いため、脚本の根幹に関わる部分の訂正は「面白い」そのものの作り直しを意味し、結果、手を加えられないため」である。
これは脚本に限らず、私自身の「面白い」への拘りのような気がする。
悪癖と断じても良いのかもしれない、と頭をぐるぐるさせる。
まつもと演劇祭の時に上記の理由で一悶着があった。
キャラクターは良いから筋を整えれば良い、という提案がどうしても受け止め切れなかった。
その筋を通すのであれば作り直す必要がある、と私は言ったのだが、そういうことではないと相手は困惑していた。
あの時の私を俯瞰すると、即ち、私の面白いの根幹を直そうと提案されたので、そこの部分を弄るのであれば、一から書き直した方が良いと感じたのだ。
物語の面白さは複層でできている。
物語の構成、キャラクターの立ち具合、言葉選び、風景描写などなど、物語の楽しみ方は幾つもある。
私の脚本はある意味で一点突破型なのかもしれない。
ある一点が面白い、そうした脚本なのかもしれない。
筋を通す、というのは物語に厚みを持たせようとする提案であり、それ自体は何の不満もない。
私は不満がないが、周りが不満だったりする。
「面白くないから書き直せ」という意味で発言した訳ではない、と言うのだ。
しかし私はそこが逆に分からない、より面白くするにはそうした手順が必要なのではないのか?
現在、2022年に上演予定の脚本をすでに書き上げている。
それを書き直すつもりでもある。
しかし、恐らく、私の確固たる「面白い」の根幹に言及されたら、全部作り直そうと考えるだろうし、無理だと感じたら突っぱねるだろう。
これはかなりリスキーな事態ではある。
そこそこ自信作でもあるので、ちょっとやそっとじゃ私は納得しない。
「私は納得しないだろう」ということを、書いて気付く。
「面白くないからやらない」、と言われれば、納得できる。
「この脚本ではお客さまに出せない」とも言われれば、それでも納得できる。
お蔵入りか、全書き直しか、それだけの話しである。
しかし、私はそうして割り切れるのに、何故か言及者がまごまごする。
特に副主宰は発言しておいて、まごまごする。
どうしたいのか全く分からないから、ハッキリして欲しい。
ただ、私の割り切りスタイルが私へ提案し辛さに繋がっているとしたら、申し訳ない。
私としては単純に「面白い・詰まらない」でバツンと切り捨ててくれた方が助かる。
もぞもぞされても困るのだが、嫌な役を買いたくないのも分かる。
私がもぞもぞし始めたら、それは面白くないような気がする。
私は私で考え、書き、あとは世に放つだけ、とした方が良い気がする。
塩梅の難しさはあるが、私の面白さは割り切ってこそではないだろうか?
次へ次へと突き動くのが私である。
すでに書いた脚本の面白いは、ある意味の完結してしまっている。
そこら辺の私の意固地の部分は、改めて話すべきだろう。
所属劇団の劇団員に対して、面倒な人間の相手をさせてしまって申し訳ない気分になってきた。
もう少し柔軟な人間でいたかったが、それは叶わない幻だ。
2022年の劇の心配の種が増えたな、ということだけがヒシヒシと感じる。
私が人間として成熟する日を迎えられるのか、ただただ天井を仰ぎ見るのみぞ。