今回の過去の記事は。
バッグ・グロージャーについて書いている。
パンの袋を開封後、開いたパンの袋の口を閉じるために用いるアイテムである、あのバッグ・グロージャーだ。
袋に残ったパンを湿気らせないために袋の口を細く絞ってからバッグ・グロージャーでキュッと留めたことは、朝食はパン派なら経験しているのではないだろうか。
記事では、バッグ・グロージャーの位置付けを「脇役の脇役」としている。
主役はパンであり、脇役はパンの袋で、その脇役の引き立て役にバッグ・グロージャーがあるとしている。
この見方は「パンが主役」とした固定観念から発想されているのが伺える。
バッグ・グロージャーが主役になる視点が欠けていた。
ばらけた家電製品のコードをまとめるのに役立つというライフハックがある。
「キュッとまとめて留める」としたことが得意なバッグ・グロージャーの本領が遺憾なく発揮されている。
そも「パンを留めるアレ」で伝わるくらいに仕事をしているのだ。
名前は分からないが存在感がある、一本の映画がこれでできそうな気さえしてくる。
「脇役の脇役」というのは、失礼な物言いだったのかもしれない。
どの視点で物事を見るか、見方の問題だ。
バッグ・グロージャーが主役とするなら、脇役はパンになる。
バッグ・グロージャーが欲しいからそのためにパンを買う、極めて少数かもしれないが、そういう人もいるだろう。
「パンは次いで」は応募シールに置き換えると分かり易いかもしれない。
目的は応募すると貰える物であり、そのために応募シールを集める必要があり、その応募シールが貼られているのはパン製品が多い。
パンは主役ではなくなり、脇役になる。
視点を遡れば、バッグ・グロージャーを製造する工場があるのだ。
バッグ・グロージャーを製造するために何人もの人が働き、何台もの機械が動いているのだ。
あえて「脇役の脇役」という言葉を用いてバッグ・グロージャーを主役に据えるならば、バッグ・グロージャーを製造する機械を動かす人間が「脇役の脇役」になる。
文章の最後の2行はこう締め括られている。
脇役の脇役である位置付けに彼の物は何を思うのだろうか…
人生の主役になれない、そんな彼の物は何を思うのだろうか…
仕事で油揚げの袋詰めをしている私は「脇役の脇役」である。
地域で演劇をする劇団の一員である私も「脇役の脇役」である。
視点を大小、前後、様々な角度から見れば、誰もが主役で、誰もが脇役なのだ。
脇役の脇役である私は何を思うのだろうか。
人生の主役になれない、そんな私は何を思うのだろうか。
バッグ・グロージャーは私であり、私に光を当てれば主役にも成れる。
4年前、まだまだ思考が浅かったのかもしれない。
4年後、まだまだ思考が深まるかもしれない。
今、「脇役の脇役」である私は楽しんでいるだけだ。
視点の多さを持てたのは変化の兆しなのかもしれない、と前向きに考えておく。