ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

1402(言葉の限界について)

前回、愛についてうんたらかんたら書いたが、言葉の限界を感じた。

言葉で表現できない事柄や感情はあって、 表現できないもの全てを言葉に変換するのは不可能だ。

豊富な語彙があったとしても、そのものはその場に在るからこそ全てであり、言葉によってその場から持ち出そうとすれば、「その場に在る」 から移してしまっていて、そのものを表現できなくなる。


十分に鍛えた屈強な言葉は鋭く突き刺さるように伝わるだろうが、そのものを伝えるとなると、それを感じたその人に成らなければ本当の意味では分からない。

「劇中夢」で私の演じた大羽は、追っかけていた女優を「 この世のどんな言葉を使っても彼女の素晴らしさを表せない」と言っていたが、彼が感じた「ある女優の素晴らしさ」は彼がその場に在るから感じ得たもので、大羽の記憶、体験から大羽は「ある女優の素晴らしさ」は在るが、それ以外には無いのだ。

 

劇の感想を書いていても、私が感じたことをそのまま表現できない、と感じた。

相手に伝えようとすれば、言葉を選ぶ作業も入り、 言葉の制限ができる。

私の言いたいことは表象化されて、私が感じたそのものはその時点でそのものから変わっている。


言葉の限界、そのものを表現するには言葉にしないままにする。

そのものはその場に在るからそのものであるが、言葉にしなければそのものを考えることができない。

言葉で思考する私は、常にこの矛盾と向き合わないといけない。

 

言葉の限界があるから、言葉の自由もあるのだろうとも考える。

言葉がそのものを丸ごと全部表現できたとしたら、 私がそのものを言葉にする必要がないのだ。

何故なら言葉にできるのであれば、それは万人がそのものを丸ごと理解できるので、一々それを言葉にして相手に言う必要がないのだ。


言葉にしなければ分からないは、言葉では表現できない事柄、感情がこの世に溢れているからだ。

言葉には限界があり、言葉の制限があり、しかしそれを越えて尚伝えたい事柄、感情がある。

言葉の限界を承知した上で、伝えたい何かがあるから尊い。

 

言葉に限界があるから、言葉が必要になる。

ふと、表現するというのは、こういう変換の連続なのかもしれない。

表現の限界があるから、表現が必要になる、言葉と同じ矛盾はそのままをそのままで伝えられない苦しさと共に あるのかもしれない。

 

最近、考えたことを徒然と。