身体が以前より疲れ易くなっている気がする。
今年で35歳、もう若くない。
仕事終わりに帰宅して意識が遠く目の前の認識がぼやける感じがする。
意識の問題だろうか、とにかく何かをやろうとするのに大分時間が必要になった気がする。
雪山で冷え切った自動車のエンジンが中々かからないようなもどかしさがある。
過去の私が「お前がやりたいと言っただろう?何故にやらない?」と責めてくるのを理性の私が「まあまあ落ち着きましょう?責めても仕方ないでしょ?」と宥める。
この状態は好ましくないのは分かっている。
しかし、現状打破に焦っても、過去の私がこういう状態の時に何もしないのはよく分かっている。
今、こうして動いている時に動かしていく、私の動かし方の最適解だ。
ちょっと動かせば、その内、色々とやり出す。
最初のスタートだけどうにか転がせば、後はやりくりしてくれる。
坂を転げる石は自分から転げようとしない、坂の上で蹴飛ばす奴がいるから石は坂を転げるのだ。
とは言え、蹴飛ばす石が小さければ直ぐに転がってくれるが、この石が存外にデカい。
大体、靴のサイズと同じ位のデカさはあるから、下手に蹴ると怪我をする。
今回は御嶽海くらいのデカさな気がする、蹴るのも躊躇するデカさだ。
ぱらぱらと粉が舞っている気がするから、もう一押しなような気がする。
転がれば、こちらのもの、坂の終わりまではやれる。
過去の私が「言い訳はそれだけか?」と一にらみするのを理性の私が「まあまあ水を差すのも止めましょ?動く気はあるのだから見守りましょ?」とハの字眉毛で言う。
歳の所為にするのは実に都合が良い。
実際に疲れているから的外れでもない。
しかし、やはり根本は怠け癖だろう、きっと。
こうして言い訳の種は年々と増えていくのだろうな、と憂うつになる。
石ばかりデカくなって、仕舞いには蹴飛ばすのを諦めそうになる。
自分のやりたいことは石を蹴飛ばす啖呵が切れる胆力次第だ。
人生100年なら、100年まで蹴飛ばせるだけの胆力が必要だ。
果たして私にそれだけの胆力が残せるだろうか?
年々大きくなるこの石を、私は死ぬまで蹴飛ばせるだろうか?
暗い先を見通しても凹むばかりだ。
今を楽しむ、目の前のデカい石を蹴る。
できることからやるしかない、過去も理性もその点は同じ主張だろう。
まずは一蹴り、けりを付ける。