ふつふつと新芽が出て、5月の緑が広がっていく。
5月は私の誕生月である。
私が35歳になる月ということだ。
1年で一番自分の歳を意識する月かもしれない。
山は勢いよく伸びる枝葉がエネルギー溢れる若さを感じ、対比された私の老いを実感してしまう。
猫背になった背中を伸ばせば、背骨が悲痛な声を漏れ出して老いを教えてきたりする。
大人とは何か、未だに分からずに35歳になってしまった。
何を以て「大人」なのか、はなはだ私には分からない。
noteで読んだ「大人」とは若者に倒される存在だそうだ。
年を経ることに、私の身体は劣化する。
年を経ることに、私の価値観は錆び付く。
古い価値観、老いた身体は、いずれ若者に敵わなくなる。
少なくとも私は10代20代の人よりも年が上だ。
所謂学生の人たちより価値観は古く、身体は老いている。
友達に撮ってもらった写真に写る私の顔が思っていた異常にオッサンで、10代20代の人たちにとって紛いなくオッサンなのだ。
オッサンになろうとしてオッサンになる訳ではない。
しかし、年を経れば歳が増え、自分が古く老いていっているのに気付けない。
新しい流行を目にしても、今まで繰り返してきた思考は根深く、故に価値観は簡単には変わらない。
新しさは勢いだ、追いかけ続けるのにも体力がいる。
若ければ日中夜追いかけ続けられるだろう。
しかし、少なくとも10代20代の人たちより確実に体力は落ちている。
追い切れなくなった時、自分の手元に何が残るだろうか?
今まで繰り返してきた思考を頼りに私は私の人生を歩まなければならない。
価値観は錆び付き、身体は劣化して、新しさがただただ眩しく感じる時が増える。
しかし、錆び付いた価値観を錆び付かせたままにして良い理由にはならない。
劣化する身体を劣化させたままにして良い理由にはならない。
私は私が繰り返してきた思考が、私の価値観や私の身体を肯定してくれると信じる。
昔、考えた思考が巡り巡って私に知見を与えてくれる。
「私」の境目で考えた私の身体を構成する諸パーツの考え方が、今、「正義」とは何かの思考に役立っている。
季節は巡るように、年を経て私が拘った私の思考は巡ってくる。
「オッサン」と自称するのは控えよう。
望まなくてもオッサンと呼ばれるようになる。
大事なのは、私は変わらず私であることで、子どもの私もオッサンの私も見方が違うだけで根本は同じということだ。
5月、私は35歳になる。
新しい才能に怯え、大人としての振る舞いに戸惑いながら、35歳になる。
それで良い、怯え、戸惑う私が今の答えだ。
5月、老いるのを楽しめる私を肯定したい。