普段着を目指すならわざわざ言わない方が良いだろう。
しかし、ネタにもなるから言いたくなる。
今日も頂いたスカートを着ておでかけだ。
仕事を辞めて、一気にスカートを履く機会が増えた。
私は大分履き慣れて、自分の生活に定着させたい。
夏に向けて暑くなる6月、風の通りで涼しいスカートはとても良い 。
でかける時、母と顔を合わせた。
母は私を見て、「いつまで着るつもり?」と聞いてきた。
スカートを着るのは一過性で直ぐに飽きると考えてなのか、母の価値観としては35歳が着るのは違和感があるのか、いずれにしても芳しくない反応だ。
顎を軽く上げて、「母さんも慣れて」と伝えた。
母は私を胡乱な眼で見るが、何も言わずにさっさと離れていく。
私の母だから半ば諦めているだろうから、今回も諦めてもらおう。
ちょっとしたリトマス試験になっている。
私は好きで着ているが、やはり違和感があるのだろう。
私もどちらかと言えば、古い価値観の人間なので、分からなくもない。
ふと、胡乱な目を向けた母の元に産まれ、育てられたのに、私の価値観は母のそれと違うものになったことに不思議になる。
母は一般的な、普通の人だと息子の私は感じる。
一般的な、普通の価値観の母から、何がどうしてこう逸脱した行動ばかりする価値観の息子になるのだろうか?
アドラーの提唱する家族価値、家族間でやりとりされる感じ方、考え方が子どもに影響を与えるというものがある。
私の古い価値観はどちらかと言えば、家族価値に由来しているように感じる。
アドラーによれば、家族価値に対して子どもは自分の意志で全面服従か、全面反抗のどちらかを選ぶそうなので、家族価値という視点 で言えば全面服従しているはずなのだ。
しかし、気付いたら母から「宇宙人」と評されるくらいに相違が出ている。
スカートに関する一件から保守的価値観とは確実に違う。
それともそういうのは表面的であって、実際の価値観は同じなのだろうか?
または私は全面反抗をとっているのだろうか?
父に対してなら、そういう向きもある。
もしかしたら、家族価値という点で父に対しては全面反抗だが、母に対しては全面服従なのかもしれない。
私の人格形成の時点で面倒な感じだったのか?
面倒な受け止め方をしたから、面倒な人間になった。
こう考えると、私の価値観が拗れたのも仕方ないのかもしれないと息を吐く。
栓無きことを考えながら、さて、スカートを翻して一歩前へ。