心の豊かさについて考えてみる。
Twitterで入り浸る日々を過ごしている。
可愛いイラストやら、面白い呟きやらで飽きない。
無限に時間が溶けるので、暇つぶしにはあまりに最適で危ない。
そのTwitterで似たことがバズっていた。
1つは「年収200万円で豊かに過ごす」こと。
もう1つは「サイゼリヤで食すのは貧しい」論争だ。
細かいところは見ていないが、どちらもお金が多少と心の豊かさについて論じられている。
遠目でタイムラインを眺めつつ、私にはごっちゃにしている印象がある。
資金と貧富と心の豊かさ乏しさは別だと私は考える。
まず、「豊かさ/乏しさ」の言葉の定義からいこう。
「豊かさ」とは「満ち足りて不足のないさま、十分にあるさま、余裕があって落ち着いているさま」だ。
「乏しさ」とは「十分でない、足りない」だ。
続いて、「貧しさ/富みさ」の言葉を定義する。
「貧しさ」とは「財産や金銭がとぼしく生活が苦しい、貧乏」であることだ。
「富む」とは「財産が多くある、金持ち」である。
心が豊か/乏しいは、満足/不満足か、自分自身にとって十分/不十分かの尺度だ。
資金が貧しい/富んでいるは、お金が少ない/多いである。
自分が満足するかどうかと、お金の多寡は本来は別である。
例えば、高級店で食べても、激安チェーン店で食べても、心が満たされるかは食べた人自身による。
どちらも美味しい、と感じられるかはその人が事足りるを知っているかどうかだ。
店によって求めるものが違うのだから、その店で事足りるかどうかを決めるのはその店で食べた人だ。
高級店でも激安チェーン店でも満足する人もいるし、どちらにも満足しない人もいる。
激安チェーン店が良いと人もいれば、高級店じゃないと満足しない人も当然いる。
人によって何で満足するかは違うのだから、当たり前なのだ。
お金の多寡、お金が有る/無しは選択肢の幅が変わるということだ 。
お金が多くあれば、高級店から激安チェーン店まで選べる店がぐっと増える。
お金が少なければ、高級店は選択肢から外されてしまう。
本当は高級店で食べたい(それがその人の満足)なのに、お金が少ないから激安チェーン店を選択している(その人の不満足) になっている。
高級店が最初から選択肢に入らなければ、心を乏しくさせるのだろうか?
これは「現状に不満を抱いている人はいる」という話になる。
「現状に不満を抱いている人」となると、現状を変えるか、受け入れるかするしかない。
社会問題も絡んでくるので、私から言えることは「どうしようもない」だ。
現状に不満を抱いている人が自身の不満をどうにかしなければならず、第三者ではその不満を解決できない。
では、お金が少なければ心が貧しくなるのか?
これも「今の現状で十二分過ぎるほどの満足を得ている人はいる」になる。
お金が無ければ無いなりに人生を楽しもうとする姿勢も人たちだ。
お金が湯水のように湧いてくれば、高級店にも行けるだろう。
しかし、事足りている人は高級店に行けなくても、問題ない。
自分が満足させる術を知っているからだ。
私もお金が有れば、高級店で食事をしてみたい。
お金は重要だ、自分を満足させる選択肢が広がるから。
しかし、お金が全く無くても、私は自分を満足させられる。
強がりでも何でもなく、私は心は豊かだろう。
私の幸福の感度がとてもチョロいのが大きい。
夕飯で残ったトンカツの切れ端を朝食で食べるだけで幸せになるお手軽仕様だ。
ただ、私のような心の豊かさが広範囲になるのはレアだろう。
大人に成れば、金銭が絡む関わりが増える。
心の豊かさ/乏しさとお金の貧しさ/富みさが強く相関しているように感じるのは分かる。
ただ、人それぞれ、何で満足するのか違う。
そして、何が自分が満足するのか分かっている人は少ない。
例えば、Twitterでは人それぞれの豊かな発信があるのだから、自分の心が十分に満たせるものを探ることはできるだろう。
相手をおちょくるのがTwitterなので、そういうものを見て楽しんでいる人もいるだろう。
この治安の悪さが癖になる。
暇つぶしにはあまりに最適で非情に危ない。
結論としては実に当たり前のことを書く。
私の当たり前が世間の当たり前ではないかもしれないが。
あえて言い切る。
お金は選択肢を増やし、心の豊かさは人それぞれの基準がある。
以上、私の考える心の豊かさだ。