ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

シャットアウトの過程やニュアンスも様々ある。

つい最近、友達になったYさんと私としては有意義なやりとりをしている。

Yさんは「他者に手を差し伸ばしたい」というまるでマリア様のような在り方を目指している。

そういう方だから、私が拗れた性格も相まって、長文の応酬になっている。

 

そのやりとりで私はYさんに「私は無能である」、「自分から望んで自分の可能性を解放しない」、「私の中に怪物がいる」、「父を許さない」と伝えた。

それを受けてYさんは軒並み「シャットアウトしている」という印象だったようだ。

確かに最終的に言い切りだから、シャットアウトしている印象になるのだろう。

 

しかし、私の中でそれぞれ過程とニュアンスが違う。

と、私自身が過程とニュアンスを言語化してなかったことに気付く。

これだから他者との交流は面白い、新しい気付きがある。

 

さて、自分自身の頭を整理するため、改めてそれぞれの「シャットアウト」の言語化しようか。

 

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1、私は無能

 

私は無能に関して言えば、仕事ができないから無能と自称している。

仕事で私はやらかしにやらかしているのだ。

様々な仕事を転職したが、転職したどの仕事でも何かしらやらかした。

 

私が自分を無能と言うのは、仕事でのやらかしの実績が豊富だからだ。

また、怠惰な人間なので、そも働くことに向いてない。

ホームレスの才には自信があるが、誰かと共に何か結果、成果を出すのが絶望的に下手くそだ。

 

有能が結果を出すことであるならば、私は有能ではない。

数々の仕事でのやらかしは実際にあった事実だ。

「あなたは無能ではない(有能である)」と言及されても過去のやらかしが帳消しにはならない。

 

過去は過ぎ去ってしまったからこそ過去なのだ。

 

ただ、この「無能」は仕事限定の節がある。

仕事は人生に占める割合が大きいが、人生には趣味も生き方もある。

私を説明するのに「無能」の自称は有益であったが、生き方と仕事を一緒くたにして横着していた。

この点については反省し、「私は無能」発言は場合分けするように気を付ける。

 

2、私の可能性を自ずから解放しない。

 

私の可能性は在るとして、その可能性を自ずから解放するつもりは毛頭にない。

機会があって、私の新たな可能性が向こうから来たのであれば吝かではない。

しかし、自ずから私を解放しない。

 

私の最初から持っている可能性というのは、私の様々な観念である。

例えば、私は性別は「男」で国籍は「日本人」だ。

この固定観念に対して、「え、本当は解放したいよね?」と言われても困惑する。

 

「男」だから、女子更衣室に入らないし、「日本人」のまま日本で生涯全うしたい。

この「男」、「日本人」と同じ観念として、「自分を疑って信じない」がある。

この「自分を疑って信じない」という観念も「男」、「日本人」と同じで「え、本当は解放したいよね?」と言われても困惑困惑なのだ。

 

しかし、未来において解放する可能性ならある。

「男」であるが、未来において男性がパートナーになるかもしれない。

「日本人」であるが、未来においてフランス国籍に変更するかもしれない。

「自分を疑って信じない」私だが、未来においては信じようと努めているかもしれない。

 

しかし、「男」、「日本人」、「自分を疑って信じない」の固定観念を私自ら進んで解放する必要がない。

それよりも私にとって「今、この瞬間」が重要だ。

「今、この瞬間」にフォーカスしていれば、私の望む結果になるだろう。

 

未来は未だ来ないからこそ未来なのだ。

 

尤も、「今、この瞬間にフォーカスする」も私の観念であり、この点から出発しているので、「今、この瞬間」の可能性を解放していると解釈もできる。

なので、私の立ち位置を動かさないが、流れてくるものへのアンテナは張り続ける半解放状態を維持するものである。

この半解放状態を解放すると解釈されたとしても、仕方ないとして受け止める。

 

3、私の中の怪物。

 

高校の頃から漠然としたイメージとして、「洞窟の奥底で怯えている爪の鋭い狼」像がある。

出口に背を向け、身体をぶるぶると震わせ、両手で頭を抱え、爪の間から細く長く息を吐く。

後年、この漠然としたイメージの正体を「猜疑心と肥大した自己」であると突き止めた。

 

狼は「肥大した自己」の象徴であり、震えや鋭い爪が「猜疑心」の現れとして表出したのだ。

私の一側面としての「猜疑心」や「肥大した自己」が形として表すと「洞窟の奥底で怯えている爪の鋭い狼」像である。

この狼の言いたいことは即ち、ここで書かれている長文の端々に出ているだろう。

 

この狼が最も恐れているのは「他者を傷付けること」だ。

距離を間違えればたちまち他者を傷付けてしまう。

それ故にこの距離感に怯え、疑う、私を怪しく惑わす。

 

怪物は怪しい物だからこそ怪物なのだ。

 

しかし、この「洞窟の奥底で怯えている爪の鋭い狼」は近年飼い慣らせられている。

「寂しさを飼い慣らせ」と洞窟の奥底に向かって叫んで、狼の在り方を認めている。

これからも怪物と共に生きる。

 

4、父を許さない。

 

これだけ毛色が違う。

Yさんの印象そのまま、シャットアウトしている。

「父を許さない」点だけは何者からも断絶している。


聞き入れる、ではない。

話せば分かる、でもない。

私は私の中で「父を許さない」と決めた。

 

「許さない」と決めてから私の中の気付きは出尽くした。

もし可能性を解放するとしても「もっと許さない」という方向だ。

「許す」という方向での可能性は3億円相当の宝物があったとしても、解放しない。

 

シャットアウトはこの境界から締め出すからこそ、シャットアウトなのだ。

 

特に付け加えることも無し。

 

5、あえて言い切る。

 

Yさんにこの説明をして概ね理解を示してくれた。

Yさんとしては、ポジティブになって、父を許して、もっと私の可能性は素晴らしいと手を差し伸ばしたいようだ。

しかし、それはYさん自身も「これは私のエゴだ」と自覚されており、一先ずの幕が降りた。

 

阿弥陀様のような在り方であるYさんにとっては、私はカンダタのように見えるのだろう。

しかし、私は今の現状に満足している。

追求者として、私は私のまま私の選ぶ選択の果てを目指すばかりだ。

 

シャットアウトの過程やニュアンスも様々ある。

 

時期は2022年9月上旬、夏と秋の間である。

夏は過ぎて、秋は未だ来ぬ。

その間隙に私はいる。

 

今はこの瞬間だからこそ今なのだ。