ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

138

下書きが溜まりに溜まっていく。

波打ち際に打ち寄せるビニールやペットボトルの残骸のように溜まっていく。

途中までは書いてあるが、このまま日の目を見ないままなのかもしれない。

 

その中後半端な下書きの中に、妙なタイトルを見付ける。

「76(マテ茶)」

 

記事一覧で確認すると、やはり「76」は投稿済みだ。

おそらく、記事を二つ書いて、区別するために片方に適当な言葉を書いたのだろう。

 

しかし、マテ茶?何でだろう?

私は飲むとしたら、緑茶系で、マテ茶は飲んだことがない。

そういう時の言葉選びは、その日に適当に思い浮かんだ言葉をそのまま書く。

きっとその日の私の気分が、マテ茶だったのだろう。

 

して、この記事の内容は何だろうか?

気になったので、開いてみた。

以下、書いた内容。

 

__________

ノリ弁を買いました。

 

ご飯の上にノリが敷き詰められ、ノリの下にはオカカがあります。

チクワの揚げ物、目玉焼き、ハム、唐揚げのオカズが乗せられてます。

野菜ジュースを買って、栄養バランスを取ります。

 

漫画「月に吠えらんねえ」を読みました。

 

相変わらず、難解な展開で、学の無さが情けない。

その難解な展開の中で、言葉とは、それ自体が強い社会性を持っている、と。

ふと、「ノリ弁を買いました」などと書くのも、そういうことなのか?と考えます。

実にくだらない、一個人の日常の断片を、自分の中で密封せず、言葉にしているということは、即ち、社会に帰属したいからなのか?

 

ノリ弁を買いました。

この一言に、難解な展開は必要か否か。

ゆっくり考えます。

 

投稿します。

 

__________

 

マテ茶、関係ない。

何故、「ノリ弁」にしなかった。

または、「月に吠えらんねえ」でも良かった。

本当に適当だと、つくづく感じる。

シャツの裏表を気にせずに着るような、適当さだ。

 または、円周率は「3よりちょっと大きいで良いじゃん?」と言うような、適当さだ。

 

記事の内容が入って来ない…タイトルの仮称も大事だな…

今度から、仮称ももう少し関連がありそうな感じのチョイスにします。

 

投稿します。

これは、「私」の境目の補足である。

前回のコメントを取っ掛かりに考える。

 

「私」の境目について、私見を書いたところ、コメントを頂いた。

uenokoeda.hatenablog.com

 

気合いを入れて書いた記事だけに、大変嬉しい。

卵を割ったら、黄身が二つ入っていたような、嬉しさだ。

 

さて、返事を書こう、としばし考える。

そして、気付く。

どのコメントも趣深く、容易にまとめることができないことに。

 

ブックマークでのコメントも連投は運営に嫌がられると聞いたことがある。

コメントを丁寧に書こうとすると、時間が足りない気がする。

どうしたものか、と再び考える。

そして、閃く。

コメントの返事を記事にしてしまえば良いのでは?

 

「私」の境目についてのコメントだ。

私以外の視点から、「私」の境目の考えを聞いているとも言える。

これは、「私」の境目の補足である。

ならば、返答と共に、思考してみても良いだろう。

 

…コメントを他の人が読むことを考えれば、こうしてまとめても問題ないはず…

どうも、こうしたコメントの引用をして良いかどうかの境目が分からない…

迷惑であれば、即刻消すので、お許しください。

と、事後報告。

 

さて、コメントをして頂いた方は3名。

最初に頂いたコメントを引用。

それに対する、私の私見を書く。

最後に、コメントして頂いた方のブログも載せる。

…最後は余計か?いや、この記事を読んだ方が他のブログに行けるようにするのも大事だ、多分…

最後の、ブログを載せることもお許しください。

 

では、最初のコメントから。

atamatokokoroatamatokokoroさん

私は、他者と私の境目は「意識」の違いだと思っています。体をつくる成分はほとんどが他者と同じ、きっと発生源も同じ、食べるものもほとんど同じ。ならばその人が持つ意識によって人と人が違うものであるのかなと。

 

体をつくる成分 、食べるものは、ほとんど同じであり、発生源もきっと同じである。

ならば、何をもって境目とするかは、その人の持つ意識によって「他者」と「私」の境目ができる。

ここで注目すべきは、「他者」の存在の認識が前提にあることだろう。

「発生源」というのは、生まれた場所やその元となった物質等の「人間」としての発生は同じ、と解釈した。

「ほとんど」というのは、朝はご飯か、パンかの違いだろうが、一般に食べる物は同じであると言う意味だろう。

境目、「私」という意識は、「他者」がいると言う意識が前提にある。

 

例えば、自分と背格好から、考え方、行動様式に至るまで、すべて完全に同じクローンが居たとして。

先ほどの「ほとんど」の部分もない、100%同じそのクローンは、「私」と同じ「私」であろうか?

否、完全に同じであっても、存在として数える時に、「2人」と数えるだろう。

即ち、「私」とは「1人」であるという意識であり、「2人」ではない。

 

これは、「私」という存在が「あなた」と言う存在を認識することを前提にしている。

「あなた」という存在、概念がなければ、「私」は存在しない。

 

例えば、無人島に漂着して、孤独にサバイバルしたとして。

その時に「私」という存在を強く意識することはあるだろう。

しかし、どうして「私」という存在を強く意識するかと言えば、今まで当然のように居た「あなた」、「他者」が居なくなることからだろう。

今までは相対する「1人」でしかなかったが、無人島で絶対な「1人」になる。

 

ならば、「他者」の存在、概念を知らない状態、記憶喪失によって、無人島に居るとしたらどうだろうか?

その時は、「私」という意識より、如何に生存するか?に思考が回るだろう。

すると、「私」の自意識がなくても、人は生きていけるし、生存する上では必要ない代物であることになる。

 

ただ、「私」という意識が「他者」によって成り立つということは、社会の成り立ちに迫ることだろう。

社会の成り立ちについては、「資本論」を読むべきだ、というのを聞いたので、今の私にこれ以上は踏め込めない。

想像で書いていける部分もあるだろうが、せめて概要だけでも読んでからにしたい。

 

以上、読んで思考したことだ。

コメントを寄せて頂いたのは、ブログ「小さな大学生」さんである。

atamatokokoro.hatenablog.com

 

では、次のコメントへ。

gemini-yahatagemini-yahataさん

「私」が発見されたのが14世紀後半、「私ってなんだろう?」と疑問が出たのが18世紀前半。近代的問題に、結構切り込んでいると思います。

 

 

近代的問題に切り込めてますか…何と恐れ多いことか。

いや、近代的問題に切り込めるくらいに思考したと自負すべきか。

 

「私」が発見されたのが、14世紀後半。

「「私」とは何だ?」と疑問が出たのが18世紀前半。 

 

このコメントから私が考えたことは2つ。

 

1つ、現在は21世紀であり、「私」が発見されたのが14世紀後半、およそ650年前である。

また、「私」について思考され始めたのが、18世紀前半、およそ300年前だ。

「上の小枝の怠け者」である私の思考は、古くは650年前からある。

そして、私が書いた記事の内容は、300年前にはすでに通った道である。

 

人の思考は光よりも早い、300年もあれば、手垢がびっしりと着いた古本のような思考を繰り返したことだろう。

この「私」については、おそらく西洋の文献ではないかと偏見している。

 

東洋と西洋では思考が違う。

例えば、風船が飛んでいる様子を見て。

東洋の人は、「風に吹かれて飛んでいる」と考え。

西洋の人は、「風船に穴が空いていて、そこから漏れた空気で飛んでいる。」と考える。

 

即ち、東洋は外部の影響と考え、西洋は内部の問題と考える。

私の偏見で、西洋は内部の問題をよく意識しているのではないか?と考えている。

 

ただ、東洋西洋どちらにせよ、650年前に「私」が発見されたということは、それ以前、「私」は存在しなかったことを意味する。

前述で、記憶喪失した上に無人島に漂着した例を上げたが、650年以前は生存することが重要だった、と想像する。

つまり、「私」を発見する、時代の契機、きっかけがあったということだ。

「私」を発見する契機とは一体なんなのか?大変興味深い。

 

2つ、「私」が発見されたのが14世紀後半、「「私」とは何だ?」と疑問が出たのが18世紀前半。

およそ350年の開きである。

350年、その間、「私」があるという認識なのに、そのことについて何も疑問を持たずにいたということだ。

これが不思議である。

 

文献に残る、記録するに値するレベルになるまで、350年はかかり過ぎではないだろうか?

それとも、やはり、「私」についての追求はそれほど大したことではないのだろうか?

 

350年、おぎゃあと生まれた赤子さえ墓場で眠ってしまい、墓参りに来るのが顔も見たこともない年老いた子孫とその孫くらい、長い。

いや、今でこそ平均寿命は伸び、80歳まで生きるのが普通になってきたが、当時はもっと短かったはずだ。

調べてみたら、18世紀頃は35歳前後だった。

図録▽平均寿命の歴史的推移(日本と主要国)

 

350年の感覚は、自分の人生を10回はする計算になる。

今で言えば、800年先の未来だ。

 

ただ、今の私の年齢である30歳で、当時は年寄りであった。

そして、今の時代には、云々と思考するゆとりが十分にある。

疑問を持つ暇がなかった、と考えるのが妥当か?

 

だとすれば、やはり、18世紀前半の「「私」とは何だ?」の疑問を持つ契機が俄然気になってくる。

これは、読まなければならない本が増えた…?

嗚呼、時間が足りない。

人生10回分の時間が欲しい。

 

以上、読んで思考したことだ。

コメントを頂いたのは、ブログ「CHUFF!! チャフで行こうよ。」さんである。

chuff.hatenablog.com

 

最後のコメントへ。

syaoruuさん

必要最小限まで肉体を削ぎ落した場合、脳に酸素と糖分を供給できる設備や機械があるなら、「私」と言う個の存在は脳だけになる。

 

 

必要最小限、脳に酸素と糖分を供給できる設備や機械があれば、「私」の個の存在は脳だけになる。

それは、脳が「私」の境目であると言える、とも解釈できる。

 

「私」という意識が脳によって作られた、とする考えは哲学において重要だろう。

現に脳科学で道徳の観念を調べる実験、「トロッコ問題」がある。

 

「トロッコ問題」とは。

………

 

ロッコのレールの上で作業をしている5人がいて、その5人に向かって暴走したトロッコは走ってきている。

このまま行けば、5人は間違いなくトロッコに轢かれてしまう。

5人が気付くことはないし、トロッコが脱線することも叶わない。

 

しかし、手元にトロッコの行き先を変えるレバーがある。

今、レバーを操作すれば、5人は助けることができる。

 

しかし、レバーで行き先を変えた先、別の作業をしている1人がいる。

こちらもトロッコに気付くことはないし、作業を中断する様子もない。

レバーで行き先を変えれば、その1人は間違いなくトロッコに轢かれる。

 

レバーを操作して、5人を助け、1人を死なせるか。

レバーを操作せずに、5人を死なせ、1人を生かすか。

 

………

 

この「5人か1人か」は幾つかバリエーションがあって、それら幾つかのバリエーションで聞いた質問の答えを脳のどの部分が判断しているのか、調べているのだ。

 

判断するのは、「私」であり、道徳を有するのは、「私」とするならば。

脳こそが、「私」であると意見もあって然るべきだろう。

 

では、設備や機械によって維持されている脳が、「私」を獲得することはあるのか?

例えば、夢を見ることはあるだろう。

しかし、その夢は果たして、脳が見ているのか?

 

つまり、途中から人間から摘出された脳であるのか。

または、細胞を培養するところから作られた人工の脳であるのか。

 

ある一定の期間、人間として過ごした後、脳を摘出した場合。

 

脳が見る景色は、その人間が培った経験を元に、再現するだろう。

そして、その景色の中には、「私」は保持したままである、と考えても良いだろう。

何故なら、すでに「他者」の存在は認識した後であろうし、脳を摘出する上で多くの人に「あなたはそれで良いの?」と聞かれるはずだ。

ならば、「私」はこれで良い、と答えを言えるまでの「私」の認識を深めた上で摘出すると考えるのが妥当だ。

 

その上で、脳が「私」の境目であると言えるが、それは施設で働いている、外からの人間からの視点だ。

脳だけの存在になったら、見る景色は脳内の景色であり、脳内の景色の中で「私」を構築すると考えるならば、実際は液体の中で電極やチューブに繋がれた脳であっても、脳が見る景色の中の「私」は脳を摘出する前の姿形をしているのではないか?

ならば、脳の中の「私」の認識する「私」という意識は、脳が作り出す姿形を持って「私」と指す、と愚考する。

 

一から培養した、人工脳であった場合。

 

iPS細胞がある現在、一から培養して人工脳を作り出す技術はそう遠くない未来、実現可能だろう。

しかし、その人工脳を脳のまま、機械に繋ぎ止めた場合、「私」はあるのか?

 

例えば、施設の人間が、電子パルスを送るボタンを押して、脳の各部位を刺激して、そうして刺激された脳は、夢を見ると仮定して。

更に、その夢の積み重ねによって、脳が「私」を獲得することがあったとして。

その場合、本当にそれは「私」なのか?

 

人工で「私」を作り出せるとしたら、「私」の正体は電子パルスであることになる。

脳の中の「私」は、「私」が思考や行動を積み重ねた結果、「私」を獲得したと考える。

しかし、実際は、「私」は外部の人間の電気パルスを送るボタンによって形成されたものだ。

即ち、人工で「私」は作れるのか?

 

人の性格は、遺伝要因と環境要因で決まる。

先祖代々からの遺伝子の情報からか、家族や友人などの関係からか。

人の性格の原因を探るに、この2つの要因がある。

 

人工脳は、完全培養であり、遺伝子の情報はないとする。

また、脳だけで機械に繋がれたままなので環境の関係もない。

遺伝要因も環境要因もない、全く新しい「人類」が生まれる。

 

しかし、果たして、それは私たち人間と同じ生き物だろうか?

それとも、人間によってデザインされた究極の良心を持った人間が作れたら、それは歓迎すべきことなのだろうか?

 

疑問が尽きないが、「私」という意識、概念そのものが覆される事態になることは疑いようもない。

「私」をデザインされた人間、それはどんな人間なのか、会えるなら会って話をしてみたい。

 

以上、読んで思考したことだ。

コメントを頂いたのは、ブログ「新しい、パソコンを☆買いたい!」さん。

syaoruu.hateblo.jp

 

コメントの返答を書いていたら、前回より長くなった。

明日はきっと眠くて辛くなるだろう。

しかし、充足感はある。

 

改めまして、コメントして頂いた3名の方、ありがとうございました。

 

以上、「私」の境目の補足を区切る。

 

長々とご精読、ありがとうございます。

「私」の境目は、「私」を見付けた瞬間だ。

「私」の境目を取っ掛かりに考えます。

 

眠い眠いとうわ言しか言わない、野晒しで朽ち果てた新聞紙のような私。

今日も今日とて、眠い眠いと独り言。

最近は、本当にそれしか言わないから、記事も眠くなるような詰まらない記事ばかり。

当ブログにとっては、見渡す限り雲一つない青い空で歌うような、清々しいことだ。

 

そうは言っても、たまには真面目に書かなければならない。

真面目に、私が興味があること、「私」の追求した内容をある程度まとめてみたい。

「私」の追求、それはそれで詰まらない記事ではある。

当ブログにとっては、水平線の彼方さえ遮る物が何一つない碧い海で祈るような、尊厳ある行いだ。

 

さて、最近、私の中で話題沸騰していること。

「私」の境目は何処から何処までなのだろうか?

「私」と「それ以外」の境目はあるのか?

そんなことを考えている。

 

例えば、指から伸びる爪。

手でも足でも、指先から伸びている爪は、私の身体から出ている。

その爪を爪切りで切れば、その爪は私の身体から切り離される。

爪切りから切った爪は、私の身体から切り落としたものだが、「私」ではない。

 

同様に、頭から生える髪の毛。

私の頭部から伸びているが、ハサミで整髪すれば、同様に身体から切り離される。

整髪して切り離された髪の毛は、同様に私の身体から切り落としたものだが、「私」ではない。

 

私の爪、私の髪の毛ではあるが、意識としての「私」は内在していない。

しかし、「私」を内在している身体を構成しているパーツではある。

それらパーツがなければ、私の身体は構成できず、「私」を内在することができない。

 

構成するパーツの観点から、私の爪、私の髪の毛は、「私」を内在する上で不可欠だ。

それは、私の身体を構成する諸パーツは、私の身体、即ち、「私」が内在する意識の諸パーツとも考えられる。

つまり、私の爪、私の髪の毛は、「私」を内在している。

 

では、何処から「私」であり、何処まで「私」であるのか?

または、何処から「私」でなく、何処まで「私」でないのか?

パチンと爪切りの音と共に、「私」も切り落とされているのか?

 

それが気になって気になって仕方ない。

頬の内側にできた口内炎の小さな腫れ物のように、気になる。

「私」の境目を探ってみようが、今回の思考だ。

 

爪や髪の毛は、「私」の身体を構成する諸パーツである。

なら、「私」の身体を構成する諸パーツ以外、空気ならばどうだろうか?

 

私たちは、空気を鼻や口から吸い込み、肺に送り、血液に乗せて、体内にある内蔵や脳に行き、不要な物と入れ替えて、再び血液、肺、鼻や口へと戻され、体外へと排出される。

この空気は、「私」の身体を構成する諸パーツを維持するのに必要だ。

即ち、空気は、「私」の身体を構成する諸パーツを構成する物質だ。

では、空気は何処から「私」と成り、何処から「私」ではなくなるのか?

 

「私」の身体を構成する諸パーツであれば、「私」の内在の可否は身体から切り離された時点と言えば、分かり易いかもしれない。

しかし、諸パーツを構成するのに空気が必要だが、その空気は何時から諸パーツへとなるのか?

取り込まれても、空気は酸素から二酸化炭素の入れ替え、つまり、完全に「私」の身体に取り込まれたとは考えづらい。

空気ほど、境目が曖昧なものはないだろう、と私は考える。

 

そも、空気には「私」が内在するのか、その可否から考えなければならない。

空気に「私」が内在するなら、空気が存在する空間そのものが「私」を内在するのかということになる。

空間が「私」を内在するなら、一体何処からが「他者」になるのかも視野に入れなければならない。

まずは、空気に「私」が内在した場合と、空気に「私」が内在しない場合の両観点から思考したい。

 

空気は「私」を内在しない、とした場合。

 

空気に「私」が内在しないのであれば、私の身体は「私」を内包しないことを指す。

爪や髪の毛で考察したように、諸パーツの観点で言えば、意識として爪や髪の毛は物質でしかない。

 

いや、爪や髪の毛の身体から出た諸パーツならば、「私の」、と言える。

私の爪、私の髪の毛、と注目することができる。

しかし、空気を「私の」とは言わない。

言うとしたら、雰囲気や様子を表す意味の空気であり、物質としての空気ではないだろう。

空気そのものには、「私」は内在しない。

 

しかし、爪や髪の毛で考察、空気が諸パーツの構成する諸パーツである点から、「私」を内在させる意識を作るのは、「私」の身体を構成する諸パーツのみならず、それを維持する物質の諸パーツが不可欠だ。

「私」と身体と物質を分けて考えると、空気は「私」を内在しない。

「私」の身体や身体を構成する物質に繋がりがあると考えると、空気は「私」を内在する。

 

何れにしても、「私」の境目は存在しない。

 

では、空気はある境目から「私」を内在する、とした場合。

 

前述の「私」の境目の可否は、意識の可否、物質のどう捉えるかによる。

今から考えることは、前提として、「空気に「私」は内在する」として、境目そのものに注目している。

 

思考する上で、幾つか境目を想像して、3つを仮定した。

 

1、鼻や口の何れかを通った時点(唇、鼻腔に相当する箇所)。

2、肺胞に取り込まれてから。

3、赤血球と結合してから。

 

順に考える。

 

1、鼻や口の何れかを通った時点(唇、鼻腔に相当する箇所)。

 

鼻や口、つまり、自身の身体そのものが境目だとした。

空気はそこにある時点では、空気でしかない。

私が鼻や口で吸って空気の質感を感じているその瞬間、「私」を内在する。

そして、鼻や口から吐き出され、唇から空気が離れたその瞬間から、「私」は内在しない。

 

「私」という意識が顕現するのは、「私」を意識しているからであり、「私」を意識しているのは、「私」であり、「あなた」ではない。

「私」を意識する上で、目に入る爪や髪の毛は、「私」の身体であるという意識であり、これもまた、「あなた」の身体ではない。

私は身体を絶対視するのは、「私」の意識が「私」の身体だ、という意識であり、身体の所有者は「私」であるという意識だと考える。

 

即ち、「私」という意識を意識した時点で境目が現れる。

 

2、肺胞に取り込まれてから。

 

1で考察した「私」の意識を、肺に取り込まれた時点としている。

1と共通している点で言えば、「私」の意識の有無だろう。

1との相違は、では、何処から空気は「私」ではないのか?である。

 

吸われたときは、空気は空気でしかないが、吐き出されるとき、私の体内にあった二酸化炭素なども放出される。

即ち、空気そのものの物質に「私」が内在したままなのか?である。

 

エレベーターで乗っていると、咳をしている人がいるとして。

数時間後、風邪を引いたときに「移された」と言わないだろうか?

空気を介して、私以外の身体から出たウイルスが「私」の身体に入ってくることを意味する。

 

コップ一杯の水を海に入れ、海を撹拌して、もう一度コップで掬ったとして。

元のコップ一杯の水を構成していた原子が世界中のどの場所であっても含まれる、と聞いたことがある。

 

同じ空間に入れば、同じ物質の空気を共有することは十分ある。

その空気は、私から出た空気の物質、他人から出た空気の物質には、それぞれ「私」が内在しているとしたら。

文字通り、「私」の中に「あなた」が居て、「あなた」の中に「私」がいることになる。

その場合、空間そのものが「私」であることになり、空気を保持している地球も「私」であると考えられる。

 

つまり、宇宙規模で言えば、大気の境目が「私」の境目だ。

そして、地球規模で言えば、「私」の境目はないことになる。

 

3、赤血球と結合してから。

 

血こそが「私」を内在するという想像だ。

1との共通は、「私」の身体を境目としている点。

2との共通は、何処から「私」ではなくなるか?の点。

1、2との相違は、何処まで「私」なのか?である。

 

爪や髪の毛と同様に血も切り傷があれば、身体から出る。

床に落ちれば、血は切り離されたと考えて良いだろう。

血の成分には赤血球が主だった成分だが、その赤血球と結合したままの空気もあるのではないか?

 

例えば、輸血で他人の血を私の中に入れる。

元は他人の血であるが、意識として、「私」の意識が「あなた」になることはない。

また、他人の血が「私」以外であると考えるか、意識するかが重要だ。

 

すべてに共通していることは、「私」の自意識である。

血が床に落ちて、汚れになっても「私」を見付ければ、それは「私」を内在していることになる。

 

血に含まれた時点、という仮定そのものが境目としてある。

 

色々と考察したが、総合して。

あえて、言い切る。

 

「私」の境目は、「私」を見付けた瞬間だ。

 

「私」という自意識が「私」を見付ければ、それは「私」である。

「私」という自意識が「私」の内在を認めなければ、そこに「私」はいない。

神出鬼没の幽霊に振り回されるような、そんな気分だ。

 

この思考は、文献を頼っていない。

故に正しいかは分からない。

しかし、それほど見当外れではないだろう。

 

これからも、自意識の渦に沈みながら、考える。

137

三重県から生還、無事に帰宅する。

色々とあった2連休だった…

 

さて、消えた記事を思い出そうとパソコンを立ち上げる。

ふと、カテゴリーを見ると「意味のない数字」が137記事を投稿していることになっていた。

 

はて?私がパソコンを立ち上げる前に、最後に投稿したのは、「136」だ。

137、一つ何故か多い。

カテゴリーをクリック、遡って見るが、137記事目に該当する記事が見当たらない。

 

今度は、投稿した記事をスクロールしてみた。

直感のようなものだ、記事一覧に何かあるのかもしれないという。

すると、9月8日に9月20日に投稿して消えた記事があった。

 

即クリックして、内容を確認する。

最後に投稿した、つまり書き上げた内容そのままであった。

 

驚きと共に、記事が消えていなかったことに歓喜の雄叫びを上げた。

たまたま1000円で買った馬券が万馬券に化けたような、驚きと歓喜だ。

同時に、もう一度書かなくて良い安堵感もあった。

 

しかし、一体、何が起こったのだろうか?

下書き保存していたときは9月10日付けからである。

投稿先が9月10日なら、下書き保存したバックアップができたのかな?と考えなくもない。

しかし、9月8日…どうして、そこに飛ばされた?

いや、広大なインターネットワークの混沌としたバイナリの世界に放り込まれて、よくぞ戻って来てくれた。

主人の代わりにお伊勢さんに代参したおかげ犬のような、嬉しいことだ。

 

何はともあれ、戻って来てくれた記事、投稿しよう。

取りあえず、一度、下書きに戻して保存。

その後、コピー&ペーストで新規記事にする。

そして、投稿。

 

そうすると、この「137」は読まれないかもしれないが、些末なことだ。

高速道路で覆面パトカーに10km/hオーバーで罰金されたような、些末なことだ。

または、夜勤の仕事なのに、夜寝る習慣に戻ってしまったような、些末なことだ。

 

三重県の旅行記はまた今度書くことにする。

 

投稿します。

136

投稿した記事が消えた。

文字数は数えていないが、5000文字はあるはずだ。

なのに、反映されていない。

いや、一度表示したが、電源を立ち上げたら、消えていたのだ。

下書き一覧にもない、狐に化かされたように、跡形もない。

 

今、私は三重県にいる。

投稿したのは、スマートフォンからだ。

私は、はてなブログはてなProを利用していない。

はてなProではないから、パソコンのような細やかな編集はできない。

即ち、復旧ができない。

 

悲しいかな、気合い入れて書いたから。

悲しいかな、よく書いたと満足したから。

しかし、仕方ない、仕様がない。

また、一から書き直す。

 

書きたいことは決まっている、「内面の追求」だ。

よく考えてみたら、一度書いたから、言いたいことはまとまっている気がする。

そも、内面の追求なのだから、第一に私が分かっていれば何も問題ない。

 

飲み込めない事柄は、一個づつ分解して、噛み砕く。

受け止められない事柄は、流せることは流してしまう。

足で踏みつけて潰したペットボトルのように、べこべこに凹んでも、全力のネガティブ思考で自分を復旧する。

仕方ない、仕様がない、諦めよう何事も。

 

あー、でも、やはり、顔が下を向く。

砂利道の小石が巨石のように感じられる。

近くに伊勢と大和の境目の神話の場所があると案内板に書いてある。

丁度、書いていた内容も境目について、思い出してまたべこべこに凹む。

温泉に入りたいが、10時にならないと開かない。

今は9時、気持ちも洗い流せないことにまたべこべこに凹む。

凹み過ぎて、テンションが上がってきた。

これ、これが全力でネガティブに走る醍醐味だ。

理解されないだろうが、極限に凹むと楽しくなる。

 

ポジティブ?いいえ、愚痴愚痴とぐちゃぐちゃする様を楽しむことは、陰湿なひねくれ者であって、前向きとは違う。

後ろ向きで馬鹿をする、それが私。

 

おかしなテンションだが、どうにかこうにかなりそうだ。

このもやもやは帰ったらもう一度書く原動力にしよう。

大丈夫、同じような内容を書けば良いだけなのだから。

あー、でも、やはり、悲しいな。

 

ふと、空を見上げれば、鱗雲。

真っ青な空に踊る白い雲の群れ。

少しだけ、元気になる。
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投稿します。