ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

367

日めくりカレンダーを1枚破って、「21日」の日付にした。

破った「20日」をひらひらさせながら、何となく「21日」を眺めた。

ふと、右端に小さく「夏至」と書かれているのに目を止まり、「21日」が「夏至」であることに気付く。

 

毎年、本当に夏至なのか、疑う私がいる。

1年で最も昼が長い日とは言うが、梅雨時期の、薄暗い日中ばかりで「昼が長い」ように感じない。

今朝も、ずんぐらむっくら、雲が押し合い圧し合いしながら、分厚く折り重なっていた。

 

いつも気付いたら、夏至になっている。

時には、夏至を通り過ぎていることもある。

普段からずんぐらむっくら、毎日を過ごしているから、私の中の時間と周りの時間がズレるのだ。

 

ふと、最近、コメントを返信できてないことに思い至る。

いや、これは気付いている。

気付いているが、気付いたら、もう夏至なのだ。

 

随分、不義理なことをしてしまっている。

時間を見付けて、返信せねば。

取り急ぎ、6月中には…

 

これから、また日が短くなる。

ずんぐらむっくら、雲が向こう山へと消えていく。

366

知り合った人と初めて会話するとき、たまに「頭が良いですね」と言われることがある。

「頭が良いですね」と言われる度に、居心地の悪さを感じる。

何せ、私は私の頭の残念さ具合を知っているからだ。

 

「頭が良いですね」、と言われると、これはもしや皮肉なのではないか、と穿った見方をしてしまうことがある。

ただ、言った方は純粋な目をしていて、直視できない。

心から言っているとしたら、私の狭量さが際立ち、余計に居心地が悪くなる。

 

何を持って、頭が良いと判じているのか?

私は私の知っていることを話しているだけなのに。

頭の残念さが露呈した時の相手の顔を想像して、身震いする。

 

しかし最近だが、もしや「頭が良いですね」と言う相手は、特に深く考えて言っている訳ではないのではなかろうか、と考えるようになった。

相手の知らない単語が出てくるから、知らない単語を知っている=頭が良いぐらいなのではないか?

私が知っている単語の数など高が知れているのに。

 

例えばだ、アニメ好きのオタクがいるとしよう。

そのオタクが、とあるアニメの第14話の敵キャラの首謀者の意味深な発言は、第23話への伏線になっていて、その伏線の回収が熱い、と語ったとしよう。

私の知らない単語やら記憶力やらで、彼のオタクは頭が良い、と判じられる。

 

若しくは、某男性アイドルグループの熱烈なファンがいるとしよう。

そのファンが、とある楽曲の歌詞は、男性グループのボーカルが手掛けて、いつも歌詞を考える前にはサウナで一汗かいてから机に向かうエピソードを熱く語ったとしよう。

これも私が知らない単語やら知識が詰め込まれていて、ファンは頭が良い、と言って良いはずだ。

 

しかし、オタクもファンも「頭が良い」と褒められていない、気がする。

むしろ、「頭が悪い」と貶されるケースがある。

知らない単語を言ったから頭が良い訳ではないのだ。

 

私の話す内容など、私にとって既知である。

先例のオタクやファンの違いなど、ありはしないのだ。

私が頭が良いのであれば、これらの自分の好きなことを熱く語る彼ら彼女らも同様に頭が良いと判じるべきだ。

 

そうすると、彼ら彼女らの知識量に比べて、私の貧弱さが浮き彫りになる。

そして、気付くだろう、私の頭の残念さ具合に。

騙すつもりはなかった、という弁明は、聞いてもらえるだろうか?

 

正面から言い募るつもりはない。

「頭が良いですか、成る程、ありがとうございます」と答えておく。

「私は頭が残念なんです」と言った所で、変な空気になるだけだから。

 

勝手に凹みながら、頭を空回りさせる、梅雨の空かな…

365

19時過ぎにドコモショップに行ってみたが、閉まっていた。

仕方ないので、銭湯に行ったが、同じく閉まっていた。

行ってみて知ることが多分にある。

 

行って悲しくならないのか、と聞かれれば、悲しくはない。

何故なら、何時も何となしにその場その場で決めて行動している。

こちらの都合で店は開いている訳ではなく、向こうの都合で開いているのを了解しているからこそ、悲しみはない。

 

先に調べてから行かないのか、聞かれれば、面倒だから調べない。

県外などに出かける時には、情報を収集することはある。

しかし、私の行動は、瞬発力頼みなところがあるから、ちょっと待つ隙間がない。

 

誰かと約束したとなれば、その時間、場所について軽く調べるかもしれない。

しかし、それも、何処に行くかなど特に拘りがある訳ではない。

陸上競技でクランチングスタートで合図を待っている間のように、何も考えていない。

 

行き当たりばったりな人生は、予定を立てて過ごす人には野生動物を目撃したような信じられない体たらくに見えるかもしれない。

何かしらの予定があった方が安心だし、行動が明確に分かるのは良いこととは考える。

それでも、普段の腰の重さが予定を無駄にするので、私の場合は考えなしの方が動ける。

 

良く言えば、フットワークが軽い、不遇を受け入れられる。

悪く言えば、突拍子もない馬鹿、先見性のない阿呆だ。

馬鹿で阿呆なことは、悪いことと考えていないから、結句、良いことしか言ってないか。

 

今日は、脳の回転が良い気がするので、夜更かし気味でいこうか考える。

ふらっと、書き始めれば、良い詰まらない記事が書けそうな気がする。

取り敢えず、馬鹿のまま、阿呆面下げて、だらりと書く。

 

嗚呼、楽しい、と呟きながら、投稿する。

364

駄文、積分、積乱雲…思い付きを書いてみる。

語感が良いというか、リズムが良いというか。

これで一文、考えてみる。

 

清く、正しく、美しくは、宝塚歌劇団の文句だったか。

歌劇団としての姿勢、在り方、立ち振舞いをこの文句に込めている。

それに倣えば、駄文、積分、積乱雲も意味を持たせられるか?

 

駄文、ふざけた、下らない文章や下手な文章を指す。

駄文を駄文たらしめているのは、駄文を駄文と断じる人がいるからだろう。

つまり、駄文は駄文ゆえに駄文なのだ。

 

積分、±つきの面積を求めること、らしい。

ある範囲内、此処から此処までと定めた部分の計算とのこと、らしい。

つまり…一部を切り取って何かの値を求めている、という解釈もアリか?

 

積乱雲、何らかの原因で発生した強い上昇気流によって積雲から成長して塔あるいは山のように立ち上り、雲頂が時には成層圏下部にも達することがあるような、巨大な雲のことである、とWikipediaに書いてあった。

夏の風物詩であろう積乱雲は、原因は定かではない上昇気流が関係しているとは知らなかった。

つまり………何か分からないが積み重ねているとも言えなくも、ないか?

 

まとめるなら、詰まらない文章をせっせと拵えて。

日常の一部を切り取って、確からしいことを求めて。

それらを積み重ねている…つまり、駄文、積分、積乱雲だ。

 

駄文、積分、積乱雲な当ブログだ。

当ブログの姿勢、在り方、立ち振舞いを込めてある。

と、強引に意味付ける。

 

これぞ駄文の真骨頂とどや顔しながら、投稿する。

363

空ばかり事細やかに書いても芸がない、と考えて目線を下に下げる。

すると、田んぼの稲が青々と伸びているのに気付く。

何時の間にか、田の底の水が隠れるほどに、稲は成長していた。

 

私が空ばかり眺めている間にも、稲は上へ上へと伸びていた。

下へ目線を下げなければ、秋に黄金色になるまで気付かなかっただろう。

今、こうしている間にも、稲は伸びている。

 

存外、意識して見ていないことは多い。

目の角膜に映っていても、その角膜の映像を「私」は見ていない。

テレビを着けっ放しで誰も見ていない居間のようなものだ。

 

だから気付くと、何故今まで見えてなかったのか、自分の不注意を憂う。

しかし、そも気付けなければ見えないままなので、不注意を憂うこともない。

どっちの方が良いのか、甚だ疑問だ。

 

鈍感なまでに気付かなかった、稲の成長。

稲にしてみれば、今更で、殊更に言うことでないかもしれない。

ただ、黙々と伸びるだけ、伸びる。

 

だから、これは、何となしに私が感じることだ。

もう少し、下も見ておこう。

事細かく書けることが、きっとある。

 

書けることに気付けるかどうかは、置いておいて。

とりあえず、そう考える。

稲が風で揺れる様を眺めながら、そう考える。

 

意識絶えさず、投稿する。