真夜中にぽつりぽつり。
ユニット『賽銭箱』の話し。
全体の進みとしてはざっくり最初から通すまではできた。
ここからは細かい所を積み上げていくって感じである。
そこら辺の細かい所について、連ねていく。
細かい所、登場人物の感情の揺らぎ、ニュアンスの響きの部分を演出としては引き出していきたい! と考えている。
具体すると役者側に問いを立ててもらおう! と前回は役者に鬼質問した。
問われて、何故かとても四苦八苦していた。
何がそんなに四苦八苦するのか?
それは「問い」を立てるという行為自体が苦手意識があるのだと考える。
何かを理解しようとするなら、その何かを定義したり、言語化したりする。
定義や言語化するには「そも〇〇とはなんぞや?」と問いを立てなければならない。
何度か話をすると演出の言うことが「答え」であり、その通りに動くことを「正解」であると言っていた。
確かに演出の目指すものがあって演出の「答え」や「正解」はある。
舞台上の位置や言い方に指示を出してもいる。
しかし、「答え」や「正解」は私一人では見付けられない。
悲しきかな、私は演出としても半人前だ。
絶対的に「これが間違いなく「答え」で「正解」だ」と強く言えない。
故に役者側から、スタッフ側からの提案は歓迎したい。
ただいきなり「答え」も「正解」も出せないのも分かる。
だからこそ問いを立てていく。
『賽銭箱』としては、色々と試しながら、都度演出から「それ正解!」という方向になった。
“表現フリマ”が終わった後、この経験が役に立ってくれたら幸いだ。
さて、話しは続く。
「問いを立てる」という行為について、私の肌感覚だが、今の20代、10代の一定数、「問いを立てたくない」という人がいる。
何故だろうか?
恐らく何か自分の考えを伝えても周りから否定されるから、というのがありそうな気がする。
私自身20代の頃は考えるのが苦手だった。
何となくで生きていたし、それで困らなかった。
ただ人との出会いで問いを立てる作業をすることになり、今の私を形作った。
演劇を通して、私は日常と演劇は地続きと感じている。
演劇で出ている癖は日常でも出てるし、日常で現れる顔は演劇でも現れる。
問いを立てるのは舞台の上のみならず、これからの人生に役立つ道具だ。
舞台で納得できないことは、日常でも納得できない。
一つ納得できると迷いが減る。
だから、しつこく私は「なんぞや?」と問いたい。
一つでも多く些細なことでも納得していくことが重要だ。
互いの納得していった先に「答え」があり「正解」がある、と信じている。
納得しようとする作業は疲れるし、面倒なのは知っている。
疲れるし面倒だから後回しにしたくなるし、後回しにしても良い。
ただ今より良くしようとちょびっとでも考えているなら、問いは立てるべき、ぐらいには考えている。
最近の出来事やら過去のあれこれを思い出して、今のところは「問いを立てることは大事だぞ!」という答えである。
いずれどこかで「そも納得するとは何ぞや?」という大前提の掘り下げもしたい。
一先ず、ここまで。
真夜中にぽつりぽつりと霜の中。