ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

詰まらないことを延々と書く矜持のために。

2023年11月、しばらく投稿していく。

1ヶ月くらいは途切れなくしていきたい。

その間に2022年を秋頃まで進めよう。

 

書きたい内容はあるのだが、中々膨大な過去改竄で追い付かない。

2022年が終わる前に2024年になりそうだ。

それ自体は仕方ない、ぼちぼちやっていくしかあるまい。

 

時系列がごちゃごちゃしているから、ブログとしての価値はマイナスになっているのではないか?

知ったことではない、詰まらないことを延々と書くだけだ。

現在10月17日0時45分、当ブログについてぼろぼろ書こう。

 

区分としてはブログ運営についてなので、久方ぶりに『閑話休題』カテゴリーで書いていこうか。

さて、このブログの在り方は特段変える必要はない。

詰まらないことを延々と書く、ブログの方針は一貫している。

 

ただ「継続」の点が形骸化しているのは流石に気にした方が良いか?

というのも2022年分が終わる前に2024年になりそうだからだ。

蓄積したツケで溺れそうになっている。

 

とは言え、書きたいことがない訳ではない。

パーソナルスペース障害の可能性やら、すれ違うコミュニケーションの難しさやら。

特に信仰から考える演劇と私については最も思索し記述したい。

 

蓄積、これが問題なのだ。

1文字でも当ブログは問題ない。

しかし、全部同じだとそれは何か引っかかる。

 

私の中で「全部同じ」は思考の放棄に感じる。

蓄積した事実から逃れようとしているだけではないか?

1文字にも私の矜持、思考の現れが必要だ。

 

チラシの裏側に書く落書きはどこまでも浅い。

広く伸びやかな線を止めるモノはない。

落書きには落書きの、詰まらない文章には詰まらない文章の意地がある。

 

そうして自分の首を絞めている。

やるだけやろう、恐らく8月は書ける。

その間に11月を何となく埋めようか。

 

2月の『リナリア』と4月の『オフィーリアの戀』の戯曲は載せよう。

6月の『結婚申込』や8月の『表現フリマ』についても感想でも書くか。

今年やったあれこれを書けば、多分、月の半分は埋まる気がする。

 

11月11日はポッキーを買うし、30日分くらいならネタも降ってくるだろう。

詰まらないことはそこら辺に転がっている。

よくよく拾い上げて「詰まらない」文章を錬成していこうか。

 

その間に6月7月8月と90日分を誤魔化す。

先にどんどん投稿して後で文章を増やす作戦でいく。

書いてから投稿だと、1記事にかかる時間が長くて停滞するからだ。

 

破れかぶれ、10月は時間がある日に書いていこう。

何のために?

そんなことは決まっている、決まっているのだ。

 

詰まらないことを延々と書く私の矮小な矜持のために。

 

理性的な判断とは言えない。

しかし、当ブログは私の思考と感情の発露なのだ。

詰まらない、そう言って積み上げていく、私の一部だ。

 

では、今日も詰まらないと書いていく

iの36

みんなが「いただきます」と言う前に「コーン!」と叫ばなければならない。

料理担当曰く最後の仕上げにコーンを乗せるのだが、忘れてしまうリスクがある。

そこで私が夕食直前に「コーン!」と言って思い出させないといけない。

 

アレクサのような役割だ。

やることがないのでスマフォを触って待つ。

寝間着に着替えて完全にオフモードだ。

 

夜も更けていく。

腹も空いてきた。

あー、コーンを発声まで永遠を待つ。

 

空き地にしている昨日の分の文章でも書いておこうか?

うだうだと考える。

欠伸を一つ、私が言葉を忘れて石になる前に早く夕食時になってくれ。

 

コーン、コーンと呟く。

誰も聞いてはいない。

か細い声はストーブの稼働音にかき消される。

 

腰が痛い。

軽くストレッチをする。

もういっそ寝てしまおうか?

 

暇をもて余して錆び付く私は息もぎこちない。

何でこんなに寂しいのか。

独りとはそういうものだ、と寂しさの頭を撫でる。

 

あ、そろそろお役目か?

声の調子を伺う。

スタンバイしておく。

 

みんなの輪の中へ、コーンと言って、始まる。

iの35

御年36歳、世間的には立派なおじさんなのですけれど、精神年齢が未だ中学生くらいな私である。

小学校は卒業していると思いたい。

あと4年で初老のはずなのに、自分の幼さは一向に変わらず。

 

その原因の一端は仕事の責任から逃げているのもあるかもしれない。

「良い人であること」と「仕事の処理が早いこと」は同等に非ず、だ。

 

時間なり成果物の担保なり、そういうシビアな面に鈍感でルーズだ。

かつそうした責任を負うのを避けてきた。

責任から逃げれば現実がぼやけるのだから、それは幼いままになるよな、と溜め息が出る。

 

現実を希釈し過ぎて幻想の住人から脱却できない。

社会の責任を負うのにも処理能力が関係している気がする。

 

たくさん処理できれば、その分任される。

難しいのを処理できれば、より難しいのを任される。

 

手が遅いからたくさんはできないし、難しい処理はやったことさえない。

そうなると仕事を通して「人間性の向上」は無い気がする。

素っ気なく対応されたとしても割り切るしか方法が思い付かない。

 

人間性の向上をしたいとするなら、「仕事はできないけど良い人」という角度になる、のか?

今更、仕事ができる人間を目指してはいない。

中学の頃から「仕事をするのが向いてない」と結論付けていたのだが、自分自身に対して先見の明があったなぁ、と感じる。

 

働くのが下手だ。

 

非常に困ったことに「働くのが下手」だと「生きるのが下手」に直結する。

何せお金が稼げない。

貧すれば鈍する、生き難いのは自分の能力の無さ故に。

 

ぐだぐだ書いたが結句「働きたくねぇなぁ」に収束するんだよね。

ただ、夜の中の人々は「働きたくねぇなぁ」と言いながら仕事をこなしているのだから、私の「働きたくねぇなぁ」と一緒にしてはいけない。

働いていない状態の私が「働きたくねぇなぁ」と言ってるのだから、私のは程度が低いのだ。

これで40歳50歳になった時に同年代の経済力は著しく差ができるだろう。

 

白木屋コピペを思い出す。

自業自得なのでまるで構わないけれど、「惨めだなぁ」とか相手に思わせてしまうのではないか、という心配はある。

 

変に憐憫されてしまうと申し訳ない。

社会が悪いのではなくて、私が悪いのだ。

いっそ笑ってくれたら嬉しいのだけど、それはそれで気を遣わせてるよなぁ。

 

そうすると人付き合いも減るのだろうか?

先々の付き合いにも影を落とす、仕事下手は深刻な問題かもしれない。

私のようなねじ曲がった価値観の人間が活きる仕事はないだろうか?

 

無いよな……あったとして、どんな仕事だ?

色々な仕事は経験したけど、仕事として考えると合ったのはない。

天職だ! とウキウキしている人が羨ましい限りだ。

 

2020年で日本人男性の平均寿命が84歳らしい。

つまりこれから残り48年ある計算だ。

半世紀もあるのか……

 

のらりくらりと誤魔化すしかない。

誤魔化す、という発想になる時点で仕事の責任からどうにか逃げようとしているのが透けて見える。

うぅ、でも限界まで仕事する体力も気力もないのだ!

 

自分がちゃらんぽらんなものだから職人気質の人が眩しい。

現役時代のイチローとかストイックな姿勢には腰を抜かす。

職人気質な人は私のような人間は蛇蝎の如く嫌うだろうが、私は職人気質の人間はすごい好きだし推したい。

 

すごいどうでも良いことつらつら書いた。

考え方が凝り固まってる。

地域貢献はしたい、とは考えてはいるのだけど。

 

仕事限定だと役立たずなのよな……

自分の歳を考えると色々なことが遅きを逸してる。

 

でもタイムスリップして中学なり高校の頃の私に「お前は仕事ができないのだから、せめて正社員ルートを探せ!」と訴えても、まっっっっったく響かないだろうな。

 

あーあ、どうにかせんとな。

ぼけっとしてるだけだと湯水のようにお金が減るもんなぁ。

……まぁ、仕事のぼやきはここら辺にしておこう。