ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

『ひとり自由俳句その2』

詩を書きます。

Twitterで去年12月までつぶやいた俳句です。

こうやって見ると暗い題材が多いのが窺えます。

 

『ひとり自由俳句その2』

 

寿命です、タイヤ買い換え、する嵌めに。

 

朝降った、雪の幻、一欠片。

 

喫茶店、コーヒー眺め、三時間。

 

蝸牛、殻を遺して、どこ消えた。

 

小手先で、誤魔化し愛を、見失う。

 

空財布、一際響く、腹の虫。

 

あまつさえ、最後の干し柿、独り占め。

 

来年が、目の前だけど、後回し。

 

今更と、渇いた枯れ葉、握り締め。

 

猫の皮、剥がれてバレる、嘘の顔。

 

透明な、冬の空気に、白い息。

 

サワー呑み、ほろ酔い気分、十ニ月。

 

相容れぬ、堂々巡り、疲れ果て。

 

三十路だが、未だ私は、思春期だ。

 

灯油切れ、ぶぶぶと唸り、沈黙す。

 

我慢など、牽強付会、寿司屋行く。

 

恥部だけど、それでも晒す、愛故に。

 

刈り田んぼ、千町見据える、穂高岳

 

負けないで、そう言えるほど、強くない。

 

優しさも、掩耳盗鐘、届かない。

 

趣味読書、だけど大体、漫画だね。

 

ぼっち故、クリスマスイブは、ふて寝です。

 

北風が、吹き荒び皆、灰色に。

 

空っぽな、私が進む、茨道。

 

珈琲に、スティックシュガー、三本目。

 

終わる年、形振り構う、暇ほしい。

 

服脱げど、体重計は、誤魔化せず。

 

謝れど、にべなく閉まる、ドアの鍵。

 

書く時は、意味があるのに、読めぬメモ。

 

悲しさと、車軸を流して、思い出に。

 

結婚を、してもせずとも、良い時代。

 

気付いてる、あなたの中に、居るわたし。

 

仕方なし、諦めてから、本番だ。

 

幸せを、決めるのはいつも、このわたし。

 

怠け者、すでに気持ちが、折れかける。

 

片思い、してるパリピを、見るぼっち。

 

焼き芋が、擦れっ枯らしの、身に沁みる。

 

敷衍して、敷衍し続け、ねじ曲げる。

 

玉の中、妻弾かれる、只の石。

 

嘯けど、解雇で凹む、吾が心。

 

怠けてた、ツケを支払い、無一文。

 

暗闇だ、とりもなおさず、覿面だ。

 

スモモの木、冠直す、お馬鹿な吾。

 

先生を、ママと呼ぶような、動揺。

 

しゃちこばる、久方ぶりの、拙い句。

 

呟くに、何故か躊躇う、独り者。

 

冷える部屋、布団に潜り、二度寝する。

 

コンビニの、ケーキを食べる、クリぼっち。

 

サンタさん、高望みしちゃ、駄目ですか?

 

寝ない子に、プレゼントなど、ありはせぬ。

 

茨道、胸のノバラと、共に行く。

 

渋柿の、実る野山に、積もる雪。

 

鍋つつき、締めのうどんが、ちょいきつい。

些細なことで常日頃から意識できる私の価値観に沿ったことを大事にする。

忠言されたことを取っ掛かりに考えます。


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普通に歩いているつもりでもひょんなことから脇道に入って迷子になる、なんてことは皆さんはご経験あるでしょうか?

よく知っている場所なら土地勘で元に戻れて一安心、こういう抜け道もあるのかと一つ賢くなる訳です。

ただ、これが知らない土地で気付かぬ内に脇道に入ると、どうしてこんなことになったのか疑問符を浮かべながら元の道に戻ろうと探す訳です。

それで元来た道を辿ろうとするのですけど、何せ知らない建物を反対から見るとたちまちさっきの道とは違う顔になって惑わしてきます。

どうにもここは知らないぞ、となると急に不安になってきます。

私は地図アプリを開いて、現在地を確認して、それを頼りにえっちらおっちら歩いて、どうにか目的の場所に辿り着く、というのが迷子になった時の大体の流れです。

 

これが道ならば対して最新のGPSや町内案内板を見てどうにか見当を付けるのですけど。

人生となるとただただ驚くばかりでどうにも前に進めなくなります。

唯一持てるのが思考のみですけど、如何せん私の頭はネジのが数本抜けているようで、未だに元の道に戻れず、堂々巡りをしている訳です。

30年間迷い続けて、最早誰よりもこの脇道を知り尽くしてしまい、迷子と言うより迷宮の主のミノタウロスに成り果ててしまいました。

 

さて、そんな私がまたしても何か間違えたようで。Facebookで何の気兼ねなしに投稿した訳です。

しばらくしていつもは閑古鳥が鳴く私の投稿にやいややいやとコメントが寄せられています。

私はどんなことが書かれているのかとクリスマスプレゼントを開ける子どものようにワクワクしてコメントを読んでいくと、どうにも雲行きが怪しくなります。

気付けば、クリスマスプレゼントの中身が参考書だった時の子どものように困惑しました。

困惑しながらも返信をしていくと、どうやら私の今後を心配してコメントして下さっていると解り、今度は平身低頭する事態となりました。

有難いことに幾つかの忠言を頂いたので、気持ち改め考えなければならない、と考え。

更に有難いことに「嫌な思いをしたくない」という命題まで頂いて、今記事を作成しながら考えをまとめている訳です。

 

前職でも「楽しければ良いじゃない」、「一人で楽しむことから皆で楽しむこと」等の忠言を賜っているので、それと合わせて考えていきます。

よく考えると、こうした私の根本に関わることで明らかな命題があるのは干天の慈雨が如くでしょう。

本腰を入れて、分け入って参ります。

 

「嫌な思いをしたくない」、「楽しければ良いじゃない」は結論として私も同じ答えを導いていた、と考えていました。

ただ、考えるに辺り前提がどうも違うぞ?が今回の忠言の示すところになります。

即ち、「嫌な思いをしたくない」、「楽しければ良いじゃない」という事実や結論から考えるのではなく、「嫌な思いをしたくない」、「楽しければ良いじゃない」と忠言されたことについて考えるということです。

では、何故そうした指摘をされたのか?大前提が私と周りで違ったということです。

何が違うのか?私は「一人で楽しむことから皆で楽しむこと」の忠言から私は「私が」と言う前提で考え、周りは「皆が」と言う前提で考えていたと推察しました。

 

「(私が)嫌な思いをしたくない」、「(私が)楽しければ良いじゃない」ではなく。

「(皆が)嫌な思いをしたくない」、「(皆が)楽しければ良いじゃない」である。

 

今まで私は一人で楽しむことにかけては極めたと言っても良いでしょう。

ただ、皆で楽しむ、これが私はできていない、と痛烈に感じます。

思い起こせば修学旅行は楽しかったですが、それは友達と一緒に過ごすことではなく私なりに修学旅行を楽しむポイントを見出して私一人でほくそ笑んでいました。

何かのパーティーや講話でも、周りと波長を合わせるではなく、私が興味を持てることや私が私の役割を私の中で決めて実行することで楽しんでいました。

完全な拗らせたぼっち理論の中で一人でずっと楽しんで来たので、そうした意味では自己完結した世界で満足していました。

 

ただ、社会に出たことにより仕事や他人と関わらなければならなくなり、自己完結では済まなくなってきました。

今まで他者を寄せ付けないまま生きてきたので、私の言動が周りとズレているのは必然でしょう。

そうすると申し訳ない気持ちになるのは、多分「(私が)周りを嫌な思いをさせてしまった」と言う観念からでしょう。

ずっと堂々巡りをしていたのは出発点が「私が」だからではないかと今現在はそう考えています。

 

では、その堂々巡りの根本は何なのか?を考えたときに「在るなら在るで良いけれど、無いなら無いで構わない」、「それはそれ、これはこれ」が私の思考を貫いています。

私は「在る」ことと「無い」ことに両方を受け入れて今まで生きてきました。

その場その場を楽しむために私は長年の思考の大半を費やしたと言えます。

しかし、一人で楽しむ分には十分でありましたが、「皆が」と言う視点で考えると全く別の意味になります。

全ての事柄をそのままにしていた為、「私」、「事柄」、「周り」など全てが非連続性であり、繋がりがないのです。

私の中で「それ」は「それ」でしかなく、「それ」が「これ」と繋がようとはしませんでした。

故に、「私が」と「皆が」は別でも構わないと言う思考になり、「私」と「周り」を断絶することになったのではないだろうか?と推察します。

 

「(皆が)嫌な思いをしたくない」、「(皆が)楽しければ良いじゃない」とは一体何なのか?

断絶した思考では皆目解りません。

例えば「70万円ガールズバーで使い切った」と言えば、私は「嫌な思い」ではありませんし、「楽しいこと」となる訳です。

されど、周りに同じように振る舞うことを望んではおらず、皆は「嫌な思い」だろうし、「楽しいこと」とは考えないとは、想像できます。

しかし、なら皆が「嫌な思い」であり、皆が「楽しいこと」とはどういった考え方なのかは解りません。

「他人によって違うから」と「それはそれ」と思考してしまえばまた堂々巡りになるので、一旦別の視点から考えます。

 

別の視点とは、「私に興味がなく、周りにも興味がない」と忠言されており、私はそのことを納得してました。

また「自分を大事にしていない」とも忠言されていて、合わせてその通りだなと感じました。

私を貫いている「在るなら在るで良いけれど無いなら無いで構わない」の思考の行き着いた先は、「(私が)在るなら在るで良いけれど(私が)無いなら無いで構わない」と言う諦念、虚無の境地です。

 

「(私が)在るなら在るで良いけれど(私が)無いなら無いで構わない」の思考であり。

「(皆が)在るなら在るで良いけれど(皆が)無いなら無いで構わない」の思考です。

 

今回の問題は、「皆が」と言う視点の欠如からの周りの配慮の無さ、空気の読めなさが周りに「嫌な思い」をさせてしまっていることです。

「皆が」感じる「嫌な思い」をした人間が「私」ですが、その背景の一端に「私が」私をぞんざいに扱っていることが起因しているのではないでしょうか?

「在るならば在るで良いけれど無ければ無いで構わない」の極致が空っぽであることを是とする姿勢であり、「私」をぞんざいに扱っても「私が」「嫌な思い」はしないし、「楽しいこと」と言っても良かった訳です。

しかし、「私」をぞんざいに扱っている内に恐らく「周り」も無自覚にぞんざいに扱うことになり、結果「皆が」「嫌な思い」をすることになったのではないか?と推察しました。

 

ならば、「自分を大事にしていない」の言う忠言から察するに「私は私を大事にする」と言う思考をするということです。

 

大事にするとはどういうことか?

大事[おおごと]にすると言う意味で考えるならば、一事が万事「私」が「嫌な思い」をしないために、また「私」が「楽しいこと」ができるように私に気を遣うと言うこと。

こう考えたときに、胃がキューッと閉まるような気持ち悪さがありました。

ここで私は「私を大事にする」ことへの抵抗があることを意識しました。

 

「私を大事にする」と言うのは今までの思考とはベクトルの違う思考です。

登場人物の気持ちを述べよと言う文章問題からX軸Y軸上を移動している点Pの値を求める計算問題に変わるくらいのベクトルの違いです。

「大事にする」と思考する度に吐き気がします。

「私を大事にする」と言う思考が未知で不安で仕方ありません。

 

しかし、「すぐ否定する」癖があることを忠言されているので、否定せず「私を大事にする」ことを考えなければなりません。

怖気が止まりませんが、続行します。

 

「大事にする」には大事にする何かがあって然るべきでしょう。

では「私を大事にする」とは一体何なのか?

今までの思考である「(私が)在るなら在るで良いけれど(私が)無いなら無いで構わない」から私は私が空っぽと規定しています。

これの否定、私は空っぽではない。と思考することになりますが。

これは今まで大事にしてきていないので、今現時点で私が大事なモノはない、と否定される訳です。

しかし、「すぐ否定する」せず、私が大事にしていることは何なのか、を規定してみます。

 

例えば、祖母に会いたいのは私の願いですが、大事という点で言えば、祖母が天国で祖父や会いたい人に会って幸せであることが大事です。

悪友が結婚しますが、悪友が末永く幸せであることは大事です。

姉や妹が県外で頑張っているので、健康で夢に向かっていることが大事です。

会える人が元気であることが大事です。

泣いている子どもがしっかりと泣いた後に立ち上がれることが大事です。

老人が立ち上がって血気盛んに盛り上がることが大事です。

日本が千代八千代に繁栄することが大事です。

 

私以外が世界中が幸せであることが大事です。

 

…困りました。否定しないで考え始めたら、壮大になっていった割に私が何処にもいません。

今までの思考の弊害でしょう。同時に堂々巡りをする訳です。「私」が存在しないのですから。

思考を別角度から考えます。

 

「自分探しを止めろ、本当の自分なんてない」と何処かで読んだ気がします。

「私」は何処にも存在しない空っぽな人間なので、ここで「私」を探しても無駄でしょう。

ならば、「私を大事にする」何かを創出すれば良いのです。

それを私なりに大事にすれば、自ずと周りを大事にするようになる、手筈です。

ならば、何を大事にすれば、「私を大事にする」ことになるのか?

これは慎重に決めなければならないでしょう。何故なら私が大事にしたいことでも「私を大事にする」ことに繋がらなければ意味がないからです。

 

些細なことが望ましいです。あまりに大きいことだと私の中で拒否反応が出そうですし、途方もなさで挫けそうです。

更に常日頃から意識できるものです。怠け根性の私がちょっと目を離せば意識から遠ざかるのは火を見るより明らかです。

先ほど調べてましたら、どうやら自分の価値観を大事にすることが自分を大事にすることになるという記事が幾つかありました。

 

些細なことで常日頃から意識できる私の価値観に沿ったことを大事にする。

 

私の価値観である「大事」は他者の負担をかけないことです。

常日頃から母は私に家にあまり居ないことを伝えています。

朝起きて、着替えて、何か外に出かければ、母の負担がなくなる気がします。

そこで、以下の結論に達しました。

 

「朝8時には外に出る」この行動を大事にしてみよう。

 

他にも実践できることがあるでしょうけど、取りあえず、一つずつ大事にしていきます。

既に挫けそうですけど…こうやって自らを否定する癖はどうにも抜けないので、そうした癖も意識して上記の行動を最低1年は続けられるよう努めます。

…もう早朝と言って良い時間に未だ書いていますけど…これは私にとって考えなければならないことだから。

胸が苦しくなります…大事にするとは何と大変なことか…

 

と言うより、この結論で問題はないだろうか?また間違えた気もします。

真剣に取り組んで考えたのですけど、間違えていたらどうしよう…

この結論を破棄するのはツラいような、ホッとするような…複雑な心境になりそうです。

 

うーん、間違えていたらまた考えれば良いだけですけど。不安だ。

間違えてなくても不安だ。この先、私は私を大事にするのか?恐ろしい…

不安で不安で嫌になります。不安過ぎて気持ちが揺らぎます。

500Mはある蔦で作ったボロボロの吊り橋を渡るくらい不安です。

 

でも、この思考が「ただ今を楽しむ」ことに繋がるのであれば、ちょっと我慢します。

もう一杯一杯ですけど。ちょっとだけ我慢します。

 

と考えて「私を大事にする」ことにしましたが、不安過ぎて情緒不安定です。

このままだと「私を大事にする」ことの不安で押し潰されそうです。

そこで「目の前の人間を大事にしろ」の忠言を思い出しまして、急遽主点を私から目の前の人に変更します。

思考の逃げ道を作らないと、気持ちが持たないです…

ゆくゆくは私を大事にする思考に…いや、先のことより目の前の人から。

弱い私で済みません…考えることは続けますので、それでご容赦ください。

 

長らくお付き合い頂きありがとうございます。

皆さんの大事なものが尊重されますように。

@きっと私はまた間違えるから、継続しよう。

閑話休題

 

このブログの方向性が「詰まらない」ことに全力を注いでいるけれども。

継続することの意味とは何だろうか?

 

このブログの見に来てくれる方がPV20くらいなのだけど。

最近はそんなに安定していない気がします。

PV40のときもあれば、PV10のときもあり、これはどう読み取れば良いのか?と訝しく感じます。

 

12月は何週間か投稿していない時期がありましたけど、9月からブログは継続しています。

また、9月半ば~12月上旬と1月~は毎日投稿しています。

そうして何人かは読みに来るらしい当ブログですが、何の需要があるのか?とここに来て不思議に感じてます。

 

何せ書いている内容が「僕ってこういう人間なんですよぉ」と言う構ってチャンの戯れ言ですからね。

糞詰まらない訳にも関わらず、投稿すると読みに来る人がいる訳です。

ブログの主旨から「詰まらない」と銘打っているから一応私のブログが詰まらないことは前提として理解されているかと思われます。

何となく来る人が、気の迷いで。とすると数回は解るのですが、それでも3ヶ月、そろそろ飽きられてくる頃合いでしょう。

それでも余り変わらないのは何故なのか?

 

最近は他のブログに顔を出してませんし。

誰かは知りませんが、ちょくちょく私のブログを読みに来るのは謎です。

誰かにとっては面白いこと。とすると、しかし、同じような内容に果たしてそれは面白いのか?と考えまして。

私は「詰まらない」ことが楽しくて仕方ないからこうして文字に起こしている訳ですけども。

私の記事はすべからく「詰まらない」内容であって然るべきなので「面白い」は相手に委ねているのですけど。やはり謎。

 

UFOの飛行原理が何なのか?くらい謎。

そして誰もいなくなった」の最後の一人が犯人が誰か解らなくて自殺するくらい謎。

学校の七不思議の七番目くらい謎。

 

私は私のためにブログで書いているけれど。

私のブログは毎日更新する意味があるのか?

究極的に言えば、1年に1回の更新でも良いのでは?

何故、毎日更新する必要があるのか?

 

まあ、怠けたいからな。本質は変わらない。

1回更新が途切れたら、延々と更新しないでしょう。

継続の意味は私にはある。

 

ここで言う継続は周りにおける意味。

毎日更新していることは、果たして読者の方に意味はあるのか?

ない、でしょうね。

 

私が継続しなくても、周りの日常は変わらない。

 

当たり前のこと。私の記事が路傍の小石に満たないのは自明ですし。

なら、継続はやはり私自身の心積もり。

どうして継続したいのか?

多分、何か大きな失敗をする前に誰かが気付いてくれるだろうから。

 

よく考えれば、前回のやらかして辞職の流れはFacebookでの投稿からでした。

私の思考は完全無欠で拗れているので書けば何かが間違っている訳です。

きっと、私にとって些細なことでも周りには恐ろしくておぞましいこともあるでしょう。

継続して書いていけば、誰かが見咎めてくれるでしょう。

 

私が何か大きな間違いをする前に誰かが気付いてくれるのをきっと望んでいる。

 継続の意味をここにもう一つ加えておきましょう。

 

きっと私はまた間違えるから、継続しよう。

 

詰まらない記事を最後まで読んで頂きありがとうございます。

私は言葉を発する度に周りを傷付ける悪鬼です。

分からないことを取っ掛かりに考えます。

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お金について記事を書いたのですけど。

Facebookでシェアしたら、思っていた反応と違って困惑しました。

いや、何か私のお金の使い方は杜撰で傍目から見て頭おかしいらしく?

自分では「バカな奴w超ウケるしw」とか言われるかな?って思っていたのにガチトーンで「笑えないから。きちんとしろ」と言われたようなズレにどうしたものか?と。

 

直さなくちゃいけないのですけど…何を直さなくちゃいけないのかが分からない。

何だろうな、ちょっとしたことで相容れなさが際立つな…

人と関わると何故か不愉快な思いを相手にさせてしまうし…申し訳ない気持ちで一杯です。

本当はSNSも辞めた方が良いのかもしれない。

ズレたことを言って傷付けても悲しいだけですし。

 

とか言うと「辞めるのは違うだろ?」と言われる訳です。過去経験済みです。

どうしたものか?私はもう「普通」には成れないでしょうし。

迷惑かけずに生きたいけれど、この分だと迷惑しかかけないだろうし。

死ぬのも面倒だし、生きるのも面倒。

 

これでも色々な人にどうしたら良いか聞いてきたつもりですけど。

相談されたその誰もが頭を抱えて「どうしたものか?」と唸るのを度々見ていて。

決定的に間違っているのは周りの反応から察するけれど、何が間違っているのかが30年間一向に理解できない。

どうやら言葉にして伝えるような類いではないみたいですけど…

多分、感覚的なことなのだけど。そうすると恐らく一生理解できないだろうと絶望するしかないかな。

 

分からないな…分からない。またこの問答か…

生きている限りはどうしたって私の前に立ち塞がることなのだけど。

もう何度目か数えるのも面倒なくらい同じ問答をしてますからね。

 

 

 

「私は一体何が分からないのか?」

 

 

 

まあ、私の悩みなど他の皆さんに然した興味の持てないことでしょうね。

それにしか私は興味を示さないから、益々私は詰まらない人間になるばかりです。

誰が悪いとかじゃなく、明らかに私の欠陥ってだけの話ですけどね。

そうして、結論も出せないまま、30年。人生の3分の1を消費してこの体たらく。

 

どうしたものか。どうしたものか。煩わしいほどに悩ましい。

何せ、分からないことが何なのか?がそも分からないってところからこの問題は欠陥なのですけど。

普通の常識のある人間にはヒントさえあれば自力で解ける問題であるみたいなので、周りも私の様子が不可解に感じる、と推察しています。

 

どうしてかな?楽しい思いをしながら毎日を過ごしているのに、誰かと会話をするだけで何故にこんな締め付けられる思いをしなくてはならないのだろうか?

相手は慮って言っているし、言われる内が花でしょうし、きっとこれは必要な会話でしょうけど。

毎回毎回、同じ問題に直面すると、これはやはり私の問題は私の内で解決するしかないだろうけど、散々言われても解らないことを分かる日は来るとは信じられず。

だから、言われた、小手先だけでも変えて応じてみても、「そうじゃない」と相手から憤りをぶつけられる始末…

 

どうしたら良いのかな?どうしたらいいのだろう。頭が割れそうなくらい考えているけど、分からないな…

そも、答えが出ることなのだろうか?答えがないことを延々と考えてはいないだろうか?

嗚呼、またこうして徒労に終わるなと、それだけはハッキリと分かります。

無駄に疲れだけは身体を蝕むから、甘い食べ物を食べて自分を慰めておきます。

 

この先あと何回この問答とぶつかるのだろうか…

そんなの答えが導かれるまで、なのは明白ですけど…

その答えが導かれるのは何時か、となれば…私の生涯で気付くことができるだろうか?

無理だよ、30年で答えが導かれていないのに、残り70年?足りないって…

 

私は言葉を発する度に周りを傷付ける悪鬼です。

 

世界と繋がるには言葉しかありませんけど、私が良かれと思ってもどうにも相手を傷付けてしまって、これは無口になった方が良いだろうけど。

無口になるには、私は構ってちゃんな人間だから、何処かで喋らずにはいられないでしょうし。

傷付けると分かって言葉を発しているから、これはもう悪の所業でしょう。

 

私が悪であることは大分前に解明している事実だからそのことは良いんですけどね。

悪なら悪らしい所作があるでしょうけど、多分、中途半端だし理解していないから悪らしい振る舞いってのが意識的にできてないのも問題だろうな…

あっちに向かう、こっちに向かう以前のどっちに向いているの?が分からない。私は一体何が分からないのだろうか?

 

ちょっと頭がパンクしたので、ここで掃き溜め。意味は特にないです。

ちょっとスッキリ。駄目だな、拙い言葉を私は捨てられそうにないわ…

 

皆さんの健やかなる日常を送れること願っています。

お金の使い方が幸せの鍵の一つです。

お金を取っ掛かりに考えました。


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プロミスで借りていたお金をまとめて返してしまいました。

これで支払いの心配はしなくて良さそうです。

ふと、このブログを始めたきっかけが金銭の扱いの考え方からだったっけ?と気付きまして。

まあ、借りた経緯から書いてみるかー、と何となく思い付きまして。

 

借りたのは2013年の10月、だと思います。

その頃に高校時代の知り合いに食事に誘われまして。

そんな仲良くはなかったですけど、私はぼっちですから相手が誰でも親しい感じではないので、それほど気にせずホイホイ誘いに応じて。

それでファミリーレストランに行って、話をひとしきりすると何かのイベントに誘われまして。

それにもホイホイ参加しまして。何か色々と商品の紹介とかしていましたけど。

何か改めてファミリーレストランに呼ばれたので、再三ホイホイと向かってみたら。

どうやら、インターネットビジネスに勧誘されていた、と相成る訳です。

 

私を誘った人は「お金が稼げるチャンス!」と訴えてきましたけど、ぶっちゃけ稼ぐことに興味が持てず。

でも、まあ色々と面白い話は聞けるので講演会にも参加してみて。

それで、入会するには何か商品を買わないといけないらしく?商品の魅力が解らないと売れないよね?と言われればそんな気がします。

紹介された商品には全っっっく魅力を感じなかったのですけど、まあ面白い話も聞けたし買っても良いかと考えて手続きをすることに。

それで支払いの代金を落とすのに信用金庫で借りて返した方がお得?と言われて。

 

 

 

素直にプロミスから27万円を借りてそのまま買いました。

 

 

 

今でもシャンプーとリンスは使えるのかな?解らないけど。

買った半分はちょっとは使ったかな?今は何処に置いてあるか解らないけど。

まあ、その後もちょくちょく誘われましたけど何となくフェードアウトしました。今は何をしているのか全く見当も付きません。

でも、高校の知り合いには連絡したいな、久方ぶりに。面白い話を聞けそうだし。

 

それで、毎月1万と2千円ずつ返金していきまして。

半分ほど返したのかな?覚えてないけど。

確か、2014年の10月かな?その頃は群馬県で仕事をしていました。

それで、ちょっと遊びに大阪に行きまして。

 

主だった目的は太陽の塔を写真に収めたかっただけなんですけどね。 

ぶらり道頓堀に寄ったが運の尽き?客引きの女の子に連れられてガールズバーへ。

私は調子に乗ってあれよあれよとお酒を呑まして呑んで。

手元のお金がなくなったら、銀行から引き落として呑もうってなり。

ここまで来たら、行くところまで行っちゃうか!のテンションで引き続け。

 

 

 

貯金していた70万円を使い切りました。

 

 

 

いやー、豪快に使ったな。と結構ノリノリで帰路に着きました。

むしろ、支払いができない方が怖いですからね。スッキリ支払えて良かったです。

反面、これだけお金を使っても手さえ握らせてくれなかったので、お金を使っても愛は買えないなって感じました。てへ。

 

それで、貯金がなくなったので、当分の生活費もなくなってしまったので、取りあえずプロミスから再び25万円ほど借りました。

 

それで、30万円?からまた毎月1万数千円ずつ返していきまして。

中々、減らないからいつかはまとめて返すぞ!と考えていたのです。

それで、先月私はやらかして解雇されました。

まあ、良い機会だしまとめて返すかと思い立ちまして。

 

 

 

20数万円を一括で返しました。ドヤァ。

 

 

 

次回利用できる額が上限50万円?らしいので高い買い物をするときには使いたいですね。

ただ、毎月の支払いができる職業に就いてないと厳しいから、当分は借りることはできないかな?

 

よく、幸せはお金じゃ買えないって言うけれど、お金があると幸せの土壌が作り易いではないでしょうか?

 

お金の使い方が幸せの鍵の一つです。

 

お金がないって言うのも、お金の使い方に関わるでしょう。

例えば、コンビニエンスストアーの募金は小銭をスッキリさせると言う意味合いで最強ですし。

お金がないから、節約する楽しさがあるでしょうし。

結句、どうお金を使うかを考えるのは楽しいでしょう。あれ、違うかな?

 

私の場合は、自分のお金は気持ちの向くままに使いたい人間です。

気持ちが向かなければ、普通に貯金します。

気持ちが向けば、連帯保証人くらいやっても良いかな?と考えます。

1000万円くらいなら、何とかなるんじゃね?とか。それで誰かが幸せならそれで良いじゃん?みたいな??

 

実際に負ぶされたらこんな寝言は言えない?かもなー。

いや、動機があるから働こうとはするし、私にとってはプラスの面が大きい気がするな?

こう考えると連帯保証人も悪くない気がしてきた。両親が本気で泣くだろうから、実行するなら両親がいなくなってからだなー。

実際は100万円が限度だろうか?私の支払い能力的に。それとも1000万円なら死ぬまで働けば行ける?家とか売れば行けるか??解らないけど。

 

話が逸れましたね。つまりは、お金の使い方なんて人それぞれ。

気持ちよく使えたか、自分が満足しているか。幸せってそういう感情の在り方でしょう?

 

まあ、私のような生き方は推奨できません。

むしろ、反面教師として頂けたら嬉しいです。

 

皆さんに宝玉が手に入りますように。