ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

些細なことで常日頃から意識できる私の価値観に沿ったことを大事にする。

忠言されたことを取っ掛かりに考えます。


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普通に歩いているつもりでもひょんなことから脇道に入って迷子になる、なんてことは皆さんはご経験あるでしょうか?

よく知っている場所なら土地勘で元に戻れて一安心、こういう抜け道もあるのかと一つ賢くなる訳です。

ただ、これが知らない土地で気付かぬ内に脇道に入ると、どうしてこんなことになったのか疑問符を浮かべながら元の道に戻ろうと探す訳です。

それで元来た道を辿ろうとするのですけど、何せ知らない建物を反対から見るとたちまちさっきの道とは違う顔になって惑わしてきます。

どうにもここは知らないぞ、となると急に不安になってきます。

私は地図アプリを開いて、現在地を確認して、それを頼りにえっちらおっちら歩いて、どうにか目的の場所に辿り着く、というのが迷子になった時の大体の流れです。

 

これが道ならば対して最新のGPSや町内案内板を見てどうにか見当を付けるのですけど。

人生となるとただただ驚くばかりでどうにも前に進めなくなります。

唯一持てるのが思考のみですけど、如何せん私の頭はネジのが数本抜けているようで、未だに元の道に戻れず、堂々巡りをしている訳です。

30年間迷い続けて、最早誰よりもこの脇道を知り尽くしてしまい、迷子と言うより迷宮の主のミノタウロスに成り果ててしまいました。

 

さて、そんな私がまたしても何か間違えたようで。Facebookで何の気兼ねなしに投稿した訳です。

しばらくしていつもは閑古鳥が鳴く私の投稿にやいややいやとコメントが寄せられています。

私はどんなことが書かれているのかとクリスマスプレゼントを開ける子どものようにワクワクしてコメントを読んでいくと、どうにも雲行きが怪しくなります。

気付けば、クリスマスプレゼントの中身が参考書だった時の子どものように困惑しました。

困惑しながらも返信をしていくと、どうやら私の今後を心配してコメントして下さっていると解り、今度は平身低頭する事態となりました。

有難いことに幾つかの忠言を頂いたので、気持ち改め考えなければならない、と考え。

更に有難いことに「嫌な思いをしたくない」という命題まで頂いて、今記事を作成しながら考えをまとめている訳です。

 

前職でも「楽しければ良いじゃない」、「一人で楽しむことから皆で楽しむこと」等の忠言を賜っているので、それと合わせて考えていきます。

よく考えると、こうした私の根本に関わることで明らかな命題があるのは干天の慈雨が如くでしょう。

本腰を入れて、分け入って参ります。

 

「嫌な思いをしたくない」、「楽しければ良いじゃない」は結論として私も同じ答えを導いていた、と考えていました。

ただ、考えるに辺り前提がどうも違うぞ?が今回の忠言の示すところになります。

即ち、「嫌な思いをしたくない」、「楽しければ良いじゃない」という事実や結論から考えるのではなく、「嫌な思いをしたくない」、「楽しければ良いじゃない」と忠言されたことについて考えるということです。

では、何故そうした指摘をされたのか?大前提が私と周りで違ったということです。

何が違うのか?私は「一人で楽しむことから皆で楽しむこと」の忠言から私は「私が」と言う前提で考え、周りは「皆が」と言う前提で考えていたと推察しました。

 

「(私が)嫌な思いをしたくない」、「(私が)楽しければ良いじゃない」ではなく。

「(皆が)嫌な思いをしたくない」、「(皆が)楽しければ良いじゃない」である。

 

今まで私は一人で楽しむことにかけては極めたと言っても良いでしょう。

ただ、皆で楽しむ、これが私はできていない、と痛烈に感じます。

思い起こせば修学旅行は楽しかったですが、それは友達と一緒に過ごすことではなく私なりに修学旅行を楽しむポイントを見出して私一人でほくそ笑んでいました。

何かのパーティーや講話でも、周りと波長を合わせるではなく、私が興味を持てることや私が私の役割を私の中で決めて実行することで楽しんでいました。

完全な拗らせたぼっち理論の中で一人でずっと楽しんで来たので、そうした意味では自己完結した世界で満足していました。

 

ただ、社会に出たことにより仕事や他人と関わらなければならなくなり、自己完結では済まなくなってきました。

今まで他者を寄せ付けないまま生きてきたので、私の言動が周りとズレているのは必然でしょう。

そうすると申し訳ない気持ちになるのは、多分「(私が)周りを嫌な思いをさせてしまった」と言う観念からでしょう。

ずっと堂々巡りをしていたのは出発点が「私が」だからではないかと今現在はそう考えています。

 

では、その堂々巡りの根本は何なのか?を考えたときに「在るなら在るで良いけれど、無いなら無いで構わない」、「それはそれ、これはこれ」が私の思考を貫いています。

私は「在る」ことと「無い」ことに両方を受け入れて今まで生きてきました。

その場その場を楽しむために私は長年の思考の大半を費やしたと言えます。

しかし、一人で楽しむ分には十分でありましたが、「皆が」と言う視点で考えると全く別の意味になります。

全ての事柄をそのままにしていた為、「私」、「事柄」、「周り」など全てが非連続性であり、繋がりがないのです。

私の中で「それ」は「それ」でしかなく、「それ」が「これ」と繋がようとはしませんでした。

故に、「私が」と「皆が」は別でも構わないと言う思考になり、「私」と「周り」を断絶することになったのではないだろうか?と推察します。

 

「(皆が)嫌な思いをしたくない」、「(皆が)楽しければ良いじゃない」とは一体何なのか?

断絶した思考では皆目解りません。

例えば「70万円ガールズバーで使い切った」と言えば、私は「嫌な思い」ではありませんし、「楽しいこと」となる訳です。

されど、周りに同じように振る舞うことを望んではおらず、皆は「嫌な思い」だろうし、「楽しいこと」とは考えないとは、想像できます。

しかし、なら皆が「嫌な思い」であり、皆が「楽しいこと」とはどういった考え方なのかは解りません。

「他人によって違うから」と「それはそれ」と思考してしまえばまた堂々巡りになるので、一旦別の視点から考えます。

 

別の視点とは、「私に興味がなく、周りにも興味がない」と忠言されており、私はそのことを納得してました。

また「自分を大事にしていない」とも忠言されていて、合わせてその通りだなと感じました。

私を貫いている「在るなら在るで良いけれど無いなら無いで構わない」の思考の行き着いた先は、「(私が)在るなら在るで良いけれど(私が)無いなら無いで構わない」と言う諦念、虚無の境地です。

 

「(私が)在るなら在るで良いけれど(私が)無いなら無いで構わない」の思考であり。

「(皆が)在るなら在るで良いけれど(皆が)無いなら無いで構わない」の思考です。

 

今回の問題は、「皆が」と言う視点の欠如からの周りの配慮の無さ、空気の読めなさが周りに「嫌な思い」をさせてしまっていることです。

「皆が」感じる「嫌な思い」をした人間が「私」ですが、その背景の一端に「私が」私をぞんざいに扱っていることが起因しているのではないでしょうか?

「在るならば在るで良いけれど無ければ無いで構わない」の極致が空っぽであることを是とする姿勢であり、「私」をぞんざいに扱っても「私が」「嫌な思い」はしないし、「楽しいこと」と言っても良かった訳です。

しかし、「私」をぞんざいに扱っている内に恐らく「周り」も無自覚にぞんざいに扱うことになり、結果「皆が」「嫌な思い」をすることになったのではないか?と推察しました。

 

ならば、「自分を大事にしていない」の言う忠言から察するに「私は私を大事にする」と言う思考をするということです。

 

大事にするとはどういうことか?

大事[おおごと]にすると言う意味で考えるならば、一事が万事「私」が「嫌な思い」をしないために、また「私」が「楽しいこと」ができるように私に気を遣うと言うこと。

こう考えたときに、胃がキューッと閉まるような気持ち悪さがありました。

ここで私は「私を大事にする」ことへの抵抗があることを意識しました。

 

「私を大事にする」と言うのは今までの思考とはベクトルの違う思考です。

登場人物の気持ちを述べよと言う文章問題からX軸Y軸上を移動している点Pの値を求める計算問題に変わるくらいのベクトルの違いです。

「大事にする」と思考する度に吐き気がします。

「私を大事にする」と言う思考が未知で不安で仕方ありません。

 

しかし、「すぐ否定する」癖があることを忠言されているので、否定せず「私を大事にする」ことを考えなければなりません。

怖気が止まりませんが、続行します。

 

「大事にする」には大事にする何かがあって然るべきでしょう。

では「私を大事にする」とは一体何なのか?

今までの思考である「(私が)在るなら在るで良いけれど(私が)無いなら無いで構わない」から私は私が空っぽと規定しています。

これの否定、私は空っぽではない。と思考することになりますが。

これは今まで大事にしてきていないので、今現時点で私が大事なモノはない、と否定される訳です。

しかし、「すぐ否定する」せず、私が大事にしていることは何なのか、を規定してみます。

 

例えば、祖母に会いたいのは私の願いですが、大事という点で言えば、祖母が天国で祖父や会いたい人に会って幸せであることが大事です。

悪友が結婚しますが、悪友が末永く幸せであることは大事です。

姉や妹が県外で頑張っているので、健康で夢に向かっていることが大事です。

会える人が元気であることが大事です。

泣いている子どもがしっかりと泣いた後に立ち上がれることが大事です。

老人が立ち上がって血気盛んに盛り上がることが大事です。

日本が千代八千代に繁栄することが大事です。

 

私以外が世界中が幸せであることが大事です。

 

…困りました。否定しないで考え始めたら、壮大になっていった割に私が何処にもいません。

今までの思考の弊害でしょう。同時に堂々巡りをする訳です。「私」が存在しないのですから。

思考を別角度から考えます。

 

「自分探しを止めろ、本当の自分なんてない」と何処かで読んだ気がします。

「私」は何処にも存在しない空っぽな人間なので、ここで「私」を探しても無駄でしょう。

ならば、「私を大事にする」何かを創出すれば良いのです。

それを私なりに大事にすれば、自ずと周りを大事にするようになる、手筈です。

ならば、何を大事にすれば、「私を大事にする」ことになるのか?

これは慎重に決めなければならないでしょう。何故なら私が大事にしたいことでも「私を大事にする」ことに繋がらなければ意味がないからです。

 

些細なことが望ましいです。あまりに大きいことだと私の中で拒否反応が出そうですし、途方もなさで挫けそうです。

更に常日頃から意識できるものです。怠け根性の私がちょっと目を離せば意識から遠ざかるのは火を見るより明らかです。

先ほど調べてましたら、どうやら自分の価値観を大事にすることが自分を大事にすることになるという記事が幾つかありました。

 

些細なことで常日頃から意識できる私の価値観に沿ったことを大事にする。

 

私の価値観である「大事」は他者の負担をかけないことです。

常日頃から母は私に家にあまり居ないことを伝えています。

朝起きて、着替えて、何か外に出かければ、母の負担がなくなる気がします。

そこで、以下の結論に達しました。

 

「朝8時には外に出る」この行動を大事にしてみよう。

 

他にも実践できることがあるでしょうけど、取りあえず、一つずつ大事にしていきます。

既に挫けそうですけど…こうやって自らを否定する癖はどうにも抜けないので、そうした癖も意識して上記の行動を最低1年は続けられるよう努めます。

…もう早朝と言って良い時間に未だ書いていますけど…これは私にとって考えなければならないことだから。

胸が苦しくなります…大事にするとは何と大変なことか…

 

と言うより、この結論で問題はないだろうか?また間違えた気もします。

真剣に取り組んで考えたのですけど、間違えていたらどうしよう…

この結論を破棄するのはツラいような、ホッとするような…複雑な心境になりそうです。

 

うーん、間違えていたらまた考えれば良いだけですけど。不安だ。

間違えてなくても不安だ。この先、私は私を大事にするのか?恐ろしい…

不安で不安で嫌になります。不安過ぎて気持ちが揺らぎます。

500Mはある蔦で作ったボロボロの吊り橋を渡るくらい不安です。

 

でも、この思考が「ただ今を楽しむ」ことに繋がるのであれば、ちょっと我慢します。

もう一杯一杯ですけど。ちょっとだけ我慢します。

 

と考えて「私を大事にする」ことにしましたが、不安過ぎて情緒不安定です。

このままだと「私を大事にする」ことの不安で押し潰されそうです。

そこで「目の前の人間を大事にしろ」の忠言を思い出しまして、急遽主点を私から目の前の人に変更します。

思考の逃げ道を作らないと、気持ちが持たないです…

ゆくゆくは私を大事にする思考に…いや、先のことより目の前の人から。

弱い私で済みません…考えることは続けますので、それでご容赦ください。

 

長らくお付き合い頂きありがとうございます。

皆さんの大事なものが尊重されますように。