肩たたき券を取っ掛かりに考えます。
父の日や母の日に感謝の気持ちを込めて子どもから親へ贈る手製の物、それが肩たたき券だ。
物としては特殊な部類だが、「感謝の気持ち」の表明として肩たたき券の存在感は半端ない。
紙に「かたたたきけん」と書けば作れるお手軽さと、親子のコミュニケーションが取れることもこの贈り物の優秀さを物語っている。
ところで、読者の皆様方は肩たたき券の制作をしたことはあるだろうか?
私はない、誠に親不孝者だ。
券の発行はしなかったが、小さい頃は両親に頼まれたらその日の気分で叩いたり、叩かなかったりした。
父を背中に乗って両腕を持ち上げて、エビ固めのように背中を強引に反らせて、凝りを解すのが一時期マイブームになったことがある。
ただ、後日談として父は腰を痛めたので、やらない方がマシだった。
私が青年になってからは全く肩たたきなどしなくなる、全く親不孝者である。
話しは変わるが、ナンバークロスワードパズルで例題でよく使われるのが、「肩たたき」のワードだ。
ナンバークロスワードパズルは各一文字毎に数字が割り当てられ、例えば「肩たたき」だと「12223」となり、特徴的な数字の並びとなるのでヒントに成り易いのだ。
偶に母親の買ってきたナンクロ雑誌の問題を勝手に解いているから知っている、実に親不孝だ。
またまた話しは変わるが、肩たたき券を作るのは肩たたき券を出せば肩を叩きますよ、て意味であろうか?
となれば、お小遣いをいらないよ、とサービス券的な位置付けになるのだろうか?
肩をもめばお小遣いが貰えるようなご家庭であれば、肩たたき券の効力を発揮するだろう。
単純に感謝を伝えるのに幼い子ができることが、肩たたきしか思い付かなかったパターンもあるだろう。
背伸びしたい年頃のお子さんが一生懸命に叩く姿は感涙ものかもしれません。
各家庭に各家庭毎の肩たたきのエピソードがあるのだろう。
さて、ここら辺で、本筋に入る。
あえて、言い切る。
休日は誰かの労働の上で成り立っている。
私の朧げな記憶の片隅にとある推理小説が浮かび上がる。
とある青年のところに冬の夜中に謎の電報が届けられる。
こんな冬の夜中に一体何の目的で電報を打って送っているのか、というのを推理し始める訳だ。
オチを言えば、電報を届ける「配達人」を困らせる為に、わざわざ冬の寒い時間帯に電報を送っているのではないか、という答えだった。
このうすらぼんやりした内容でこの小説のタイトルが分かる人はいるだろうか、と忘れた私はどうでも良いことが少し気になる。
小説についてはさておき、要は「何か」が起きていることには「誰か」が関わっていることがポイントとなる。
例えば、休日に遊園地に行きたい、となったとする。
しかし、その遊園地を運営している人たちが「労働」しているから、遊園地は開園しているのだ。
遊園地に向かうまでの道のりでも、自動車ならガソリンスタンドがないと困るだろうし、電車なら鉄道会社が運休していると途方に暮れるだろう。
さあ食事にしようとしても、ファミリーレストラン等の飲食店に調理スタッフさんやホールのアルバイトさんが働いているから、外食の選択ができる。
その仕事に行く人たちは、忙しいからコンビニエンスストアーやスーパーの弁当でお腹を満たすのかもしれない。
遊園地の電力、水道はインフラ系の会社があるから、アトラクションが滞りなく稼働する。
万が一の火災のために消防隊員は待機しているだろう。
急な腹痛があっても、近くで病院でお医者さんや看護師さんがいれば心配ない。
警察や警備会社が機能しているから、安心して出かけられるのだ。
遊園地に行く、たったそれだけのことでも、多くの人が関わっている。
ただ休むにもその休みを支える労働があり、そのお陰で休みを楽しめる。
よく考えれば、至極当然のことなのだ。
肩たたきも子供が「労働」した結果、親は解される訳だ。
だからと言って、私が両親に対して「労働」するつもりはない、正真正銘の親不孝だ。
そも、休日は休日なのだから楽しみたい。
他人など知らぬ、私の休日のために多くの人の「労働」を求む。
本音ベースで言えば、私と同じ考えの人もいるだろうが、名乗り出てはくれないか?
誰かの「労働」で成り立っている事実は不都合だから、目を背けないとおちおち休めないのかもしれない。
ただ、事実、休日には労働があることは肝に銘じておかないといけないだろう。
肩たたき券から随分遠くにきたが、一先ず、これにて。