ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

ひな人形は通年で飾って、毎日を祝おう。

今週のお題「ひな祭り」

 

3月3日はひな祭りであった。

ひな人形を飾り、ひなあられをぽりぽりと食べる日だ。

そして、男である私には元来、関係のない日だ。

 

しかし、2つ上に姉、4つ下に妹がいる私にとって、ひな祭りはそこそこ因縁がある。

私は母がせっせと飾るひな人形をぼけっと見て、ひなあられをこそっと強奪して過ごす。

因縁、と言うにはそれほど疎外されてもいなかったが、何となしに意識はしていたような気がする。

 

何となしに意識していたのは、やはり、我が家のひな飾りが大きいだろう。

我が家には、立派なひな飾りがある。

どれくらい立派かと言えば、全7段、三人官女に五人囃子、右大臣と左大臣も揃った立派さだ。

(画像は粗いが、写真も貼っておく)
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これだけ立派だと男の私が少なからず僻みを感じてしまっても仕方がない、と誰に対してか知らないが、言い訳が出てくる。

確か、姉が生まれた時に祝いとして贈られた物だったはずだ。

これだけ立派なら姉も妹もさぞ嬉しかっただろう、と本人に聞きもしないのに断定する。

 

さて、姉妹が長野県から飛び出して十数年の月日が流れている。

写真を撮ったのは2009年、今年は2018年だから、9年前の写真だ。

そして、9年の月日はそのまま、ひな飾りを飾っていない期間になる。

 

姉妹が実家に帰ってくるときは、盆か正月くらいで、後は県外で根を下ろした住処で日々を送っている。

実家に祝う女の子が居ないのだから、飾る理由がないのだ。

 

ふと考える。

お内裏様もお雛様も、飾られないことに、不満を感じてはいないだろうか?

 

ひな飾りは、1年の内、3月3日のこの日だけしか飾られない。

残りの364日は、物置の奥に上質な紙に包まれて、一つ一つ箱詰めされて、防虫剤を敷き詰められて、丁寧に保管される。

刑務所の独房より狭い箱に1年のほとんどを過ごし、じっと出番が来るのを待っている訳だ。

 

ようやく、3月3日に飾られ、盛大に祝い、皆を喜ばせる。

ひな人形の面目躍如だ。

しかし、それも束の間、4日には急いで片付けないと嫁に行き遅れると疫病神扱いをされ、また暗い暗い物置の奥へと仕舞われてしまうのだ。

 

そして、女の子が一人前になり、実家から出ると、出す機会が失われる。

我が家で言えば、9年、9年もの間ひたすら出番を待ち続けているのだ。

しかし、3月3日に飾られることは終ぞない。

 

あまりに不憫ではないだろうか?

人形とは、遊び相手になることと、目で楽しませることがその役割ではないのか?

ひな人形は遊び相手になることも、目で楽しませることもなく、次の出番が何時なのか分からない孤独な時間を強要しているのだ。

 

大体、嫁に行き遅れるなど、迷信に違いない。

我が家では、3月末日まで飾っていた。

しかし、妹は去年の10月に結婚している。

そんなに急いで片付けなくても、結婚はできるのだ。

 

むしろ、ひな人形の立場を考えれば、言わなければならない。

あえて、言い切る。

 

ひな人形は通年で飾って、毎日を祝おう。

 

そう、毎日が特別な日、毎日が素晴らしい日だ。

クマのプーさんも「何でもない日、おめでとう」と歌っているじゃないか。

なら、ひな人形を通年で飾って、「今日も祭りだ、わっしょい!」と祝っても良いじゃないか。

 

もちろん、事はそう簡単ではないことも承知している。

我が家のひな人形は立派過ぎるから、場所を取ってしまう。

ひな人形を飾ると部屋の3分の1を占め、邪魔になる。

物を少なくしたい父は嫌がるだろうし、地震対策も考えなければならない。

割と面倒くさがりで、行事に関しては古い考えの母を動かすのも困難だ。

目下、飾られる目処は立っていない。

 

しかし、嗚呼、しかし。

物は使われてこそ意義がある、と考える私は、虎視眈々と機会を伺う。

せめて、私が年老いて朽ち果てる前に、日の目を見せてやりたい。

 

箱詰めされたひな人形は、今年も出されず、また来年へ思いを馳せていることだろう。

仕舞われている物置の扉の前で両手を合わせる。

どうか許して欲しい、そして、何時か出す日まで辛抱強く待っていて欲しい。

 

3月3日はひな祭りであった。

しかし、毎日は素晴らしい日だ。

だから、毎日を祝っても良い。

今、私は、そう考える。

286

1年と半年、当記事で589記事目になる。

ここ数日、言葉にすることの難しさに直面している。

いや、いつも目の前には立ちはだかっていた雲上まで届きそうな高い壁はあった。

その壁を改めて間近でじっくりと眺めて驚いている、と言った方が正しいか?

 

「書けない」ことを記事には幾つかした。

しかし、「言葉にできない」ことを記事にするのは初めてではないだろうか?

似た事象ではあるが、「書けない」ことを言葉にすることはできるが、「言葉にできない」ことには「書けない」ので、本質としては「言葉にできない」ことの方が根が深い。

 

色々な記事を読み、自分でも書いてて感じることは、毎日書くのはしんどい。

質も量もある記事を1週間に1回でも投稿すれば、十分な気がする。

 

毎日がスリリングでエキサイティングな人は、朝の出来事を投稿するだけでも読まれるのかもしれない。

しかし、平々凡々な私の日常は、「起きる、出勤する、働く、退勤する、食べて寝る」をニュートンのゆりかごのように私を動かすエネルギーは常に一定で変わらない。

 

何せ、常に一定で変わらない日常を送っているから、私の体験することなど高が知れている。

本もそれほど読まず、テレビも新聞もそっちのけで、内へ内へと籠もっていき、薄く薄く私が透明になっていく。

そうした毎日で、私の毎日を書こうとすれば、自然、同じことを書くことになる。

 

1月、何遍も何遍も同じことを書く。

2月、何遍も何遍も同じことを書く。

3月、何遍も何遍も同じことを書く。

4月、何遍も何遍も同じことを書く。

5月、何遍も何遍も同じことを書く。

6月、何遍も何遍も同じことを書く。

7月、何遍も何遍も同じことを書く。

8月、何遍も何遍も同じことを書く。

9月、何遍も何遍も同じことを書く。

10月、何遍も何遍も同じことを書く。

11月、何遍も何遍も同じことを書く。

12月、何遍も何遍も同じことを書く。

そして翌年も、何遍も何遍も同じことを書く。

 

何遍も書けば、言葉の強度が増すこともある。

だが、大概は曖昧さでよく分からなくなるばかりだ。

 

それでも何遍も書く私は、阿呆なのかもしれない。

 

言葉にできないまま、投稿します。 

285

温まった自動車から降りて、冷気が私の身体を包む。

そして、「寒い」とは言い難いが、「寒い」という感覚をある。

これを言葉にするには、どうしたものか?

 

身体に触れる空気は、「冷たい」と言える。

しかし、その「冷たい」は「寒い」訳ではない。

かと言って、「涼しい」は違う。

 

短く刈った髪の先や、耳の上半分は「凍える」ように「寒い」。

しかし、大きく息を吸い込む空気は「清涼」で、「寒い」とは違う。

吐く息は白く、間違いなく「冷たい」はあるのだが、私の身体の感覚とズレがある。

 

「厳かな」と言うには、仕事前の気怠さが肚の底から私の両足を支配していて、ピリッとしていない。

「慣れ親しんだ」と言うには、いつも感じる、骨の髄の熱まで奪うほどの「凍え」は感じず、グダッとする。

春がすぐそこまで来ているが、「暖かさ」は残念ながら感じない。

 

この、「寒い」とは言い難いが、「寒い」と言う感覚を該当する表現が、私の中に無い。

だから、「「寒い」とは言い難いが、「寒い」と言う感覚」」と、どっち付かずの中途半端な言葉になる。

 

そも、「「寒い」とは言い難いが、「寒い」と言う感覚」」が言葉にするべきことか?と聞かれるとそんなことは全くない。

私自身が分かっていれば済む、私自身の僅かばかりの繊細さの表れだ。

「あー、今日はいつもの寒さと違うな」で済む、実に詰まらないことだ。

 

その実に詰まらないことを言語化しようとすると、途端、とんでもなく難しくなる。

私の感じていることをそのままに表すことの、何と曖昧なことか。

 

表現することの格闘とは、自身が感じたことをどう他者に正確に伝えるかの試行錯誤だろうか?

表現しなければ気が済まない人ではない私は、「表現者」の心理を深く読めない。

しかし、「確からしいこと」を追い求めると私の中に「確からしいこと」などないのではないか?と感じてしまう。

 

今回の「「寒い」とは言い難いが、「寒い」と言う感覚」」は、私にとって確かに「確からしいこと」なのだが、その感覚を言語化できないということは、伝聞の手段が失われているので、残すことができない。

残すことができないということは、即ち、私の「「寒い」とは言い難いが、「寒い」と言う感覚」」を証明することができないことを意味する。

私が感じているのに、私はその証明さえできないこの感覚は、果たして「確からしいこと」と言って良いのだろうか?

 

何もかもが曖昧模糊な冷気の中、ただ、「寒い」とは言い難いが、「寒い」と言う感覚を感じた瞬間を慈しむ。

慈しんで、何時か正確な言葉を覚えた時に、その正確な言葉で呼んであげたい。

今は、私の薄さを噛み締めて、顔を上げることにする。

284

目を醒ますと、ひび割れた暗闇が広がっていた。

映画で見たような青い色した照明灯のカバーが、ぼんやりと浮かぶ。

私は背骨の悲鳴を聞きながら、背を伸ばす。

 

明かりを着けると、皆一様にハッキリとした姿を現す。

軍令がスピーカーから流れた瞬間のように、物々が一斉に背筋を伸ばしたのかもしれない。

さあ私の時間だ、と急に偉そうな態度を取ってみる。

 

音を立てないように勢い良く襖を開けると、ゲージで丸くなっていた愛犬が驚いた顔をして私を見上げてきた。

あまりに素っ頓狂な顔に思わず吹き出しそうになるのを我慢する。

今は夜中の23時、誰も彼も幸せな夢を見ているはずなのだから、邪魔してはいけない。

 

部屋の明かりで示された物の輪郭にぶつからないように歩く。

目当ての個室に辿り着くと、座り込み、身体に溜まった毒と水を排出する。

個室から出ると、ぼやけた鏡に右半分だけ映った顔がこちらをじっと見ていた。

 

何となく、小腹が空いたので、帰りの道中に勝手な部屋に入る。

机の半分に様々な物が溢れている中で、緑色の袋を覗き込む。

緑色の袋の中は、更に透明の袋で幾つも小分けされていて、私はその中からフレンチトーストを手に取った。

 

同じ道を通る時に、私がここを通ったことを知っているはずの愛犬が、また素っ頓狂な顔をした。

お前、私がここを通ったのを忘れたのか?と問い質そうかとも考えたが、左手のフレンチトーストが咳払いしたので、愛犬に話しかけるのを止めた。

ゆっくりと部屋の襖を閉ざして、ストーブを着ける。

 

乱雑に散らかった、妖怪が出そうな机の上の薄埃を被ったパソコンのパスワードを打つ。

しばらく放っていたのが気に食わないのか、何度もやり直させられる。

「caps」のボタンが緑色に灯っていたのに気付き、謝り、改めて打ち込むと入ることができて、うちの子ちょっとチョロいのでは?と不安になる。

 

先ほど入手したフレンチトーストを一口、思いっきり齧る。

ネズミの胃袋にすーっと落ちていくのを、満足げに感じる。

 

これが、私が今先程に起きた、詰まらない出来事だ。

ふと、文字を見れば、850文字と表記されていた。

400文字原稿用紙なら、タイトルや名前を入れれば、3枚程度の分量で、当時の国語の先生も納得してくれることだろう。

 

如何にもな感じで、日常を描いて、投稿す。

283

明日は休みだ、天にも昇る気持ちだ。

明日は何をしようか?

…十中八九、寝ている。

 

今日も9時間は寝た。

連勤の疲れがあったためか、眠りに落ちるのが早かったように感じる。

 

9時間寝た次の休日も寝る。

どれだけ寝れば気が済むのか?

 

就活前、事を起こす前の私は、1週間をほぼ同じ場所で過ごした。

1週間以降に「そろそろ動くか」と、のろのろと行動に移した。

過去の出来事を幾つか思い出すに、私は1週間で1日分の充電になるのだろう。

 

3時間で十分だ、とよく聞くし、事実、それくらい寝れば案外何とかなるのも知っている。

しかし、寝たい。

 

明日の休みに天上の喜びを歌いながら、涅槃の床で静かに息をするように、眠りに落ちれれば、幸せだ。