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ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

他者の中の「自己」が命の正体である。

〇〇を取っ掛かりに考えます。
命を取っ掛かりに考えます。
 
取りあえず、私の基本的な考え方の一つ、「くらべること」について言及している気がするので、載せます。
 
テーマは「何故、命を大事にしなければならないのか?」
お題目は、在り来たりだけど曖昧な上に広大で意味深になっちゃう、命について。
 
まあ、かなり長文になるでしょう。
その上、散文になるでしょうから読みづらいかもしれません。
…長い上に読みづらいとか、書き物としてどうなのだろうか?
 
……斜め読み、飛ばし読みで行くしか無い?そうなっちゃいますよね…
ああ、個人の書いた適当な文章なんてそんなもんか…
 
取りあえず、ぼつぼつと書いていきます。
 
まず、一つの仮定から。
知っている方もいるかもしれませんが、産まれてくる子の遺伝子に遺伝子障碍(ダウン症)が有無を調べることが出来ます。
では、何故調べるのか?それはもし遺伝子障碍があった場合、中絶するためです。
この調査をして、かつ障碍があることが判明した人たちの8割が中絶をしたそうです。
 
この調査に対して不満を抱いた医師が遺伝子障碍があることを隠したことが問題になったことも取りざたされたことがありました。
 
ここで仮定。
「もし産まれてくる子どもが遺伝子障碍を持っていることが解ったら、中絶すべきか、産むべきか」
 
中絶反対の意見では、「この世でたった一つの命だから」という本能的に訴えるところがあります。
神様から授かった命を奪うのか、つまり殺人をするのか?ということ。
中絶の様子をリアルタッチの絵で解説したものを見ると、明らかに人の形をした胎児をハサミでバラバラにして取り出すという中々にグロテスクなものでした。
確かにこの様子を見れば人一人の命を奪っていることには違いありません。
 
中絶賛成の意見では、「この子が産まれた後の責任は取れるのか?」というもの。
例えばダウン症は知的にも身体的にも一般的にかなり劣ります。
学校に通うにも社会に出るのも親御さんのご尽力なくして成り立ちません。それこそ自分が死ぬまでその子の面倒を見る位の覚悟が必要です。
私は障碍者とその親御さんたちを間近で見てきました。本当に愛情があることと、その中でもギリギリの線引きをするような緊迫感がありました。
何より一番苦労するのは子どもです。その事も忘れてはいけないでしょう。
 
さて、ではどちらの意見が正しいのか?
言い換えれば「人一人の命を奪う殺人の責を負うか、その子の一生を全て請け負う責を負うか」ということでしょう。
 
私はこの場合は産んで欲しいかな?
確かに人一人の一生を見るのは並大抵ではないでしょうが、これはこれで面白そうだなー、と。
案外上手くやってけそうなイメージを持ってますし。
ただ、こうお気楽なのはきっと私が男だから。
女性だったら一大事です。どっちに転んでもきっと思い悩むでしょう。
なので、現実では丸投げします。どっちの選択でも構わない、と。
それでどちらの選択をしたとしても、その選択を全力で支持する所存です。
 
…まあ、そもそも相手がいないのでこんな心配をする必要はないんですけどね。
 
さて、ここで当テーマである「何故、命は大事にしなければならないのか?」にいきます。
簡単に知恵袋とかのインターネット上の意見をさらっと読んでみました。
 
それで大別すると命を大事にしなければならない事由は以下の二つ。
 
・価値
たった一つの命という価値、人生とは命をかけられること、自分の命より大事なこと=価値を見つけることets.
・感情
「命は大事」というのは本能的なこと、誰かが亡くなれば悲しくなることets.
 
この二つを大事にしないことと言えば、自殺でしょう。
自分の価値観が著しく下がっている状態であるのは間違いありません。
また、命に対して無感情、若しくは衝動的に死へと向かうなど感情が絡むと想像します。
 
命が大事と言うのは、命には相対的に価値があり、それに伴う感情がある。
 
では、命の価値とは何か?
私は「自己」ではないかと考えます。
 
アイデンティティもつまりは「自己」というものの価値の創出であり、それが感情を伴わせています。
 
「自己」があるからこそ悲しいと感じるし、人生の意味を考える。
 
話を変えて、もしこの世に幽霊が存在するとした場合でも考えてみましょうか。
つまり、肉体と幽体があるとしてどちらかが死を迎えるとします。
幽体、これを「自己」が宿るものとして。
 
肉体が亡くなるとすると、幽体はあるが、他者からは認識されない。
私も産まれてこの方幽霊を見た事がありません。
幽体があったとしても、存在が認められなければそれはいないと同じでしょう。
 
逆に肉体は機能していて、幽体が消えたとして。
植物人間も脳の損傷によるものだから、私の想像だと一応人並みの動き、必要最低限の生命維持活動を行えるとして。
それでも、「自己」は失われているのだからその人自身は価値を見いだす事が出来ない。
また、感情も失われているとも言えます。
しかし、他者から見れば存在はしているので、生きていることになる…
 
このことから私の結論は…
あえて、言い切る。
 
他者の中の「自己」が命の正体である。
 
他者とくらべることで自分の中の「自己」を見つけられる。
存在する事が誰かの「自己」の価値や感情を生み出している。
 
なので私個人には命はなく、他者が私とくらべて「自己」の価値と感情の創出をする。
また他者には命はなく、私が他者とくらべて私の「自己」の価値と感情の創出をする。
 
おお、何か美しいような、それでいて欺瞞に満ち満ちているような。
………やっぱ命のテーマは難しいですね~。
 
一人で生きていく世捨て人は何とくらべているのでしょうか?
自分の中に相対的ではなく、絶対的な命というものを持ち合わせているのでしょうか?
だとしたらそれはどんな価値があり、どのような感情を包括しているのでしょうか?
(因みに私のいう他者は人間以外も含めていますが、普通は人間同士でくらべるものでしょうから深くは追求はしません)
 
絶対的な命の価値というものがちょっとピンとこなかったのでうだうだと考えた結果、こうなりました。
最初のダウン症診断も、その子にどのような価値を見出すか、どのような感情を持つかってことなんでしょうか…
まだ、上手く表現が出来ません。
 
とりあえず、私の命はきっと誰かが受け持っているでしょうから、私は死ぬ事を恐れなくて良さそうだという慰めにはなるかな?
 
ここまで読んで頂きありがとうございます。