幸せを取っ掛かりに考えます。
本当の幸せとはなんだろうか?
唐突にそんなことを考えてみたくなりました。
ひどく取り留めのない内容になりました。
でも、私の幸せの定義で、人生哲学です。
アンダーバーより下が本文です。
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幸せの字の成り立ちは囚人の手枷を形にしたものらしいです。
幸せは何かの枷の中で見つけるものなのだろうか?
不幸せとくらべることが幸せなのだろうか?
群馬県にいるときは毎日朝は憂うつでした。
でも、時に見上げる空は驚くほど絵になって、感動しました。
実家に帰ってから父に毎日理不尽な小言を言われます。
でも朝起きて、ご飯が出て、ゆっくり過ごす日々は楽で気持ちは和らぎます。
今日読んだ漫画「月に吠えらんねえ」3巻に「詩とは豊かさからくる」とありました。
戦時の舞台では貧しい気持ちになると。
豊かさとはなんだろうか?
今まで私は豊かな人生を歩んで来ただろうか?
私は今まで幸せと感じていたことは実は偽物ではないだろうか?
祖母が夢に出ない悲しい気持ちを。
父を夢で殺す荒んだ気持ちを。
ただ誤魔化すために幸せと言っているのではないか?
戦争で人が死んでいるのに。
飢えて人が苦しんでいるのに。
私はその現実からただ逃げているだけではないか?
福島は人が住める土地を失いました。
沖縄はアメリカの基地の問題で振り回されています。
私は今幸せと言って良いのだろうか?
どれも「仕様がない」ことです。
誰かが「ヒーロー」になればであり、私が「ヒーロー」になるではなく。
「仕様がない」「仕様がない」と言えば事もなく。
誰もが何かどうしようもない感情を持っているとして。
その感情の手首には「仕様がない」という枷があるのではないか?
「仕様がない」の枷がなくなったら…ただただ絶望しか残らないのではないか?
「仕様がない」の枷があるから、暴れることもなく、じっと己を見ることが出来るのではないか?
だから幸せと言えるのではないか?
しかし、私は私の悲しみを、怒りを、手放したくありません。
しかし、私は戦争や飢えの現実をなかったことにしたくありません。
しかし、私は私の内から出るこの気持ちが偽物と断じ切れません。
何故なら、そう感じる私を見捨てたくないから。
でも、そういってばかりはいられません。
何故なら、疲れるから。どうしようもなく。
普段はそんなこと考えません。
こういうとき藁頭で良かったと心底思います。
きっと私が死ぬときは「良い人生だった」というでしょう。
私より先を見える賢人たちは疲れないのでしょうか?
彼らは幸せと言えるのでしょうか?
私を見て心配する聖人たちは疲れないでしょうか?
私は幸せと言えるでしょうか?
私一人ならきっと「仕様がない」と言わなくて良くて。
諦めなくて良くて。
でも私一人ではないからどうしようもないことがあって。
諦めていくしかなくて。
私は賢人たちや聖人たち、その他の多くの人たち全員の「幸せ」を願うなら。
全員が全員の理解を諦めて「仕様がない」というしかなくて。
でも理解することを諦めたらそれはやはり違っていて。
「仕様がない」という枷があるから幸せで。
見捨てたくない現実があるから己の幸せを確認できて。
発想が屑だなーと思いますけど…でも私は私の幸せはやはり本物だと言いたい。
この「仕様がない」の枷が私に幸せをもたらすと信じてます。
皆様方の幸せを切に願って。