着目を再考します。
霧立ち込める朝、背伸びをして歩く。
遠くの山々は、白い霧に閉ざされた世界の内側へと、その姿を隠す。
木々の間の蜘蛛の巣は、霧の露をまとい、その姿を表す。
朝の冷気に当てられて、幾分か清涼な気分になる。
さて、1月前に考察した、思考の方向性について、そろそろ再考する。
ここ数日は、疲れで逆に前のめりだ。
折角だから、このスーパーにハイテンションなマインドでグッドライティングをしちゃおうとシンキング。
イヤッフー。
初回に考察した内容が下記リンク。
「思考の方向性」を決めるのに、何に「着目」するのかが重要ではないか?と考えている。
そこで「着目」を定義した。
「着目」とは、「各個人の価値・必要性などが各個人にとって大きいことだとしていることに、選択的に反応したり、注目したりする意識の働きであり、元気をつけさせ、気付き、思い出させるように見る」とした。
次にその「着目」について、下記リンクで考察した。
「着目」の定義をして、以下の流れがある事がわかった。
1、各個人の価値・必要性などが各個人にとって大きいこと
2、選択的に反応したり、注目したりする
3、元気をつけさせ、気付き、思い出させるように見る
前回は、1について考察した。
そこでは、何が大事か、優先するのかの「判断項目」を培われるのは、「遺伝子」と「環境」の要因が重要だとしている。
そして、以下のようにまとめた。
私にとっての「判断項目」では、「内面の追求」が加味されるが、それは私の資質と経験から導かれたことなので、「内面の追求」は「価値」と置き換えても問題ない。
「意味のない数字」において、何をもっとも「大事」にするかは、このブログでの「環境」が大きいことだろう。
ブログの趣旨は、すでに私の「価値」によって方向性を定めているので、「意味のない数字」の「思考の方向性」を定めるのは、「環境」、この1年で何を経験、学習したかを精査すれば良い、はずだ。
斯くすれば、「思考の方向性」の出発点は定められる。
今回は、前回のことを踏まえた上で、2を考察したい。
2とは…
2、選択的に反応したり、注目したりする
である。
言葉にある、「選択的」とは、何か?
例えば、「AかBがあるが、どちらがより良いか?」の問いがあったとして、どちらが良いか、くらべ、選ぶための思考のことだろう。
加え、「注目」したりとあるが、これは、「AとBのどの部分をくらべるか?」の問いの部分や、「Cの選択はないのか?」の問い自体の疑問など、何に意識を向けるかだろう。
つまり、そのまま「思考の方向性」に直結する事柄だ。
ならば、問題は、何に意識が向いているか?だ。
私がこのカテゴリー「意味のない数字」に意識が向いている点。
1つ、「意味のない」という点。
2つ、「数字」という点。
3つ、「意味のない」と「数字」の繋がり。
1つ目は、当ブログの骨子、「詰まらないこと」を書くことだ。
「こんな記事は、意味のない」と切り捨てることで、「詰まらないこと」としている。
それは、日常は日常であり、思考は思考であり、ありのままをありのままにすれば、それ以外の言葉は意味を成さない、という思考からだ。
2つ目は、私の興味のあることの1つに「確からしいこと」がある。
間違い続ける私は、何が正解で、何が間違いなのか、曖昧模糊している。
故に、「これは(文献などで見ても)どうやら確からしい」と言えることを探している。
「らしい」ことなので、後々で別の正解が見つかるかもしれないが、現時点で実感を伴って、「確からしい」と言えるまで思考する。
「数字」と言うのは、それ自体がすでに明確に存在し、タイトルに付けることによって、「詰まらない記事」として、確立している。
3つ目は、これら「詰まらないこと」と「確からしいこと」の「延々と書く」ことだ。
即ち、「継続すること」に繋がる。
以上を踏まえて、結論。
あえて、言い切る。
「ありのままの確からしいこと」を思考の方向性として、定める。
「詰まらないこと」は言い換えれば、「ありのままのこと」である。
つまり、「ありのままの確からしいこと」を「意味のない数字」の骨子になっている。
そして、この「ありのままの確からしいこと」は私の日常で実感した思考の上で成り立っている。
この日常で「ありのままの確からしいこと」を探すために、このカテゴリーを位置付けよう、と決めた。
さて、おおよその方向性は決まった。
次回は、その方向性に向かって、どう取り組むのか?どう思考するのか?を検討することになるだろう。
その次回は、何時になるかは分からないが、気分が上がったら、書くようにしたい。
気付けば、もう夕方だ。
朝に云々行っていたのに、外はオレンジ色になりつつある。
朝なのか、夕なのか、ぼうっとして時間が分からない。
もう、明けるのか?まだ、暮れるのか?
確かなのは、それなりに満足したことと、足裏が結構冷たくなっていることだ。
この実感が、私を支えてくれると、信じている。