去年の9月から、はてなブログで、ブログを書いている。
今年の1月辺りから、毎日投稿している。
そうすると、書くことがなくなってくる。
mixiだけだったら、12月中だけなので、何とか持つ。
写真がメインなのも大きい。
ただ、今年は、書くことにも注力している。
お陰で例年になく、頭の内側から、総毛立ってざわつくように感じるくらい、脳の熱を発している。
ただでさえ書くことがなくなってくるのに、確からしいことを書こうとして、使う言葉に迷うから、余計に加熱している気がする。
そうして、少ない語彙を駆使して書いた私の文章を読んだ幾人かが、「美しい・綺麗な」と表現して褒めてくださることがある。
私としては、年相応の、パリッとした文章を書きたいのだが、大人の男の書く文章が、「美しい・綺麗な」と言うのは如何なのだろうか?
また、狙って「美しい・綺麗な」文章を書いている訳では決してない。
ブログを書き始めた当初は、詩を書いてみたりしたが、それらは「面白い」文章を狙っている。
そして、だだ滑りの様相になる。
半年もすれば、詩を書くこと自体、滅多になくなった。
私には、詩の才能がない。
観察して現れる最適解を導けない。
「美しい・綺麗な」詩を私は書けないのだ。
なのに、私の文章が「美しい・綺麗な」と言われるのは、何故だろう?
確からしいこと、私の実感を言葉にしようとしただけなので、褒められる度に読み返す。
これで、狙って「美しい・綺麗な」文章を書ければ、人として進歩できる予感はあるが、今のところ、狙っては書けない。
「美しい・綺麗な」と褒めてくださる人が、本当は、「美しい・綺麗な」だと感受する心の持ち主なのが、最も大きい理由ではあるだろう。
「美しい・綺麗な」だと感受する人を、観察しても、最適解は導けない。
美しさは狙えない、然れど、良い文章は狙える。
即ち、書くしかなかろう。
手で触れられる文章を目指して、逃げる言葉を追う12月19日。