厳島神社周辺にて。
昨日、「逃げる言葉」と書いた。
上手く文章が書けないことや、適切な言葉が中々出てこない等を、「逃げる」と表現した。
「逃げる言葉」と表現する人は、私以外にもいた。
書いた後、ふと、「逃げる言葉」とは一体何だ?と考えた。
「逃げる言葉」と聞いて、体感として、分からない人もいるだろう。
分かる人でも、各々が持つ、「逃げる言葉」は同じではない、だろう。
例えば、「朝」の表現する言葉を考える。
まずは、喩える。
「強盗が押し入って、上座に座って、「饅頭こわい」の落語一席を披露したような、朝」。
「映画の撮影現場で、じっとしている音声マイクを持っているスタッフが、鼻水を垂らすような朝」。
「アイドルのライブチケットの抽選に外れて落ち込んでいる時に、友達からラインで「当たった!(同伴ありだから)一緒に行こう!」と誘われたような朝」。
起きている事象を書く。
「右手から、刺すような光が凍った窓ガラスに当たり、じんわりと溶かす」。
「伸びをして、大きく息を吸うと、冷たい空気が肺一杯に入り込み、眠気と共に、白い息となって出ていく」。
「散歩帰りの愛犬が、仕事帰りの私を見つけて、くるくるとその場で跳び跳ね、リードを持つ母のダウンジャケットが捩れる」。
音で言えば、また違う。
「家から出るとコポコポと鳴る音がある。何の音かとよく耳を澄ませば、雪が溶けて、雨どいから流れる水の音であった」。
「ただ、歩いていくだけだと、本当に静かなのに、ふと立ち止まってみると、チチチと鳥が鳴くのが聞こえるのは、何故だろう?」
こうした、「朝」の表現は、事実、何れも「朝」なのだが、いざ書こうとすると、何れが正解なのか、分からなくなる。
私の場合は、思い付いた言い回しを軸にして言葉を足していく。
だから、思い付かなければ、何も書けない。
私の中の「逃げる言葉」は、最初から私から遠ざかっている。
別に「朝」は「朝」でしかないのだから、「朝が来た」で良い。
しかし、確からしいことを追い求めると、難しくなる。
それは、時間や空間を限定しようとする行為で、今この瞬間でしか書けない言葉がある。
なら、何故、確からしいことを書こうとするのか?
言葉が曖昧なのが、嫌なのかもしれない。
生き方は大味のくせして、言葉に拘っているのが、少し可笑しく感じる。
正直、「逃げる言葉」と書いている私が、「逃げる言葉」とは何か、具合して説明できない。
分かった振りして、「逃げる言葉」と書いて、言葉から逃げているのは、私だったりする。
何が言いたいか、と言えば…今回も逃げられた。
正確さを求めたはずが、有耶無耶になるこの不思議を、誰か説明してくれないか?
ぐだぐだだが、今日はここまで。