ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

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パイとは、偉大だ。

いや、何が偉大かはこれから考えるから、現時点では全く分からないけど。

とにかく、パイとは、偉大だ。

 

π、円周率とは、円の周長の直径に対する比率、3.14…からなる数字だ。

無限に続く数の連なりに頭が眩みそうだ。

この、3.14…の数の連なりは、全てのデータが入っている。

即ち、私の誕生日や姉の現住所の位置情報、母のマイナンバーカードの番号に妹の産まれた時の体重、数字で現れる全てのデータがπの中にあるというのだ。

何とも浪漫があるではないか。

 

牌、麻雀とは、4人用のテーブルゲームであり、ゲーム理論では『四人有限不確定不完全情報零和ゲーム』に分類されるものだ。

雀荘の煙と点棒数本に頭に靄がかかりそうだ。

麻雀でいうと私は「アカギ」や「冷牌」の漫画でしか知らない。

切った張ったの緊迫した状況化で、ざわざわさせて、途轍もない大金をせしめるのだ。

いやはや、浪漫がある。

 

ぱい、おっぱいとは、乳汁。または、乳房を指す幼児語だ。

語源が「ををうまい」と調べた辺りで、「私は一体、何を書いているのだろう?」と頭を抱えそうになるのを顔を赤くしながら堪える。

しかし、現実を認めなければ、いけないような気がする。

巨乳も貧乳も美乳も微乳も須く愛さなければ嘘である。

何故なら、そこに浪漫があるからだ。

 

パイとは、偉大だ。

そう、色々と偉大なのだ。

Because!浪漫に満ち満ちているからだ。

何と素晴らしいことであろうか!パイ!

何か、とにかく、どえらく素晴らしいのだ!

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投稿します。

機械に仕事を奪われた方が、人間の可能性を飛躍させる。

高度なロボット化を取っ掛かりに考える。

 

機械に仕事を奪われる。

SF映画のようなAIが人間を管理する世界だ。

そんな馬鹿な、と思う方もいるかもしれないが、よくよく考えるとそれほど非現実な話ではなかったりする。

 

例えば。

油揚げや、かりんとうの袋に時折巻かれている巾着のテープ。

金色のあのテープを私は、人の手作業で付けていると考えていた。

一つ一つ袋の口を絞って、テープを巻いて、コンテナなりコンベアなりに乗せる様を想像していたのだ。

しかし、実際に油揚げの工場で入って、袋詰めする大型の機械に付属する機能としてテープを巻いて巾着にする。

人の手などテープの補充か、剥がれてしまった時に巻き直すかくらいで、大半は機械がこなしてしまう。

 

2013年のオックスフォード大学のレポートで、アメリカの労働省のデータに基づいて、702の職種のコンピュータ化によっての分析結果が面白い。

それによれば、アメリカの全雇用のおよそ47%がきわめて高いリスクに分類される、とのこと。

その失業されると予測される仕事には、ホワイトカラーや、医者や弁護士などの知的労働まで及ぶ。

機械に管理される世界、決して夢物語ではなく、現実に起こりえる未来の一つという所がミソ。

 

レジの自動化が話題に上がったのは何時でしょうか?機械で清算するスーパーマーケットが日本にも少なからずできるだろう。

完全自動運転の議論も出ています。その内、乗っているだけで目的地に着くようになるかもしれない。

巾着のテープでさえ、現実に今、大型の機械で音を鳴らして付けている。

ちまちまとした作業を正確に、迅速に、大量に生産できる機械が人間と取って代わるのはむしろ自然のように感じる。

 

最近の寿命は80歳付近、中々に先が長い。

大学を卒業してから定年の60歳までだとして。

先の長い人生の約半分が仕事だ。

その仕事がなくなるとなると、人間はどうなるのだろうか?

 

2008年に麻生太郎氏(当時、内閣総理大臣)が以下の発言をしている。

麻生太郎首相は7日の熊本県天草市での演説で、高齢者雇用問題に触れた中で 
「世界中、労働は罰だと思っている国の方が多い。旧約聖書では 
神がアダムに与えた罰は労働。旧約聖書キリスト教イスラム教、足したら世界の何割だ。 
7割くらいの宗教の哲学は労働は罰だ」と述べた。 

日本については「天照大神高天原を見たら神々は働いていたと古事記に書いてある。 
我々は働くのは正しいと思っている」と指摘した。 

 

※日経ネット

 

日本の意識として、労働は尊いものというのがあり、西欧の労働は強いられるものとは一線を引く。

「働く」という漢字は、鎌倉時代に作られた国字のようだ。

gogen-allguide.com

 働くことへの考え方は今は欧米寄りになっているのかもしれない。

 

いずれ、人の仕事がなくなるかもしれない。

そうした時、生き方を変えなければならない。

仕事以外の、自分のための人生を。

 

日本人から仕事を奪ったら何が残るのだろうか?

働くことを善としていた日本人。

西欧寄りになり、働くことは悪とした日本人。

どちらにしても、40年の空白が生まれる。

 

40年、あまりに長い。

何もしなくて良い環境は、駄目人間を製造しそうだ。

しかし、何かを成し遂げようとするには十二分だ。

機械に管理されても、人間には人間にしかできないことが残るはずだ。

きっとそれは今までと違う時代の幕開けになるのではないだろうか?

創造に富み、革新なアイディアが生まれ、新たな価値ができるかもしれない。

そうした時代に、人間は本当にただぼけっとしているのだろうか?いや、違う。

あえて、言い切る。

 

機械に仕事を奪われた方が、人間の可能性を飛躍させる。

 

機械に仕事を奪われるかもしれない。

私はそのことが楽しみで仕方がない。

早く、私の人生から仕事を奪ってほしい。

 

皆さんの人生が穏やかでありますように。

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息をするだけで苦しい時がある。

別に呼吸ができない訳ではない。

ただ、私の空っぽの胸の内が、何となしに苦しい。

居間の座高の高い木椅子で、一人座っている時、時折そんな風になる。

 

特段、悲しいとか、寂しいとか、切ないとか。

そんなことは全くない、ないけれど。

瞼を閉じて、このまま肺から一切の空気が抜けて、そのまま時間が過ぎ去れば良いのに、と考える。

朝の日差しに照らされて、溶けて、消えてしまえばどれほど幸福だろうか?

 

時間にして5分くらいの、何となしに訪れた苦しみは私が瞼を開ける頃には、いとも容易く何処かへとすり抜けている。

そうして、肺に残った空気を惜しむように、私はため息を吐く。

またしてもあの苦しみは、私を置いて行ってしまった。

 

深々と腰かけていた私は、どっこいせ、と立ち上がる。

次は何時やってくるだろうか?あの苦しみは。

ただただ、じっとして動かない私を、あの苦しみは何時連れ去ってくれるのだろうか?

益のないことを巡らせながら、居間を後にする芒種の季節。

 

投稿します。

59

流行に疎い私ですが、書店の漫画の平積みは割りと買っている気がする。

「ドラマ化決定」などの謳い文句は、面白い漫画を探す一つの指標です。

少なくとも、ドラマ化ができる位には物語の構造の強度はあるということですから。

平積みはそこそこ気にしてます。

 

今回は、「あなたのことはそれほど」という漫画を買いました。

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最新刊を含め全5巻を出勤前にしげしげと読了しました。

いやー、良い感じに不幸で好きだわー。

 

最初は主人公の美都のお花畑具合を楽しんでましたが、美都の旦那の涼太の狂気が垣間見えてきて、今では普通に「美都さん、逃げて~!」の心境です。

浮気相手のイケメン野郎は、まあ、自業自得だなって。可愛い娘としっかりした嫁も居るのに、ほんと馬鹿の一言。

でも、イケメン野郎の涼太への気持ちは同意。いや、やっぱ怖いって。

 

とりあえず、 イケメン野郎の家庭がもっと修羅場になりそうなのと、粘着野郎の狂気が何処まで迸るかが今後注目してます。

 

まあ、そんな書評…書評?

うん、まあ、うん…

 

投稿します。

犬の思考する「私」と人間の思考する「私」は別種だ。

犬は「私」について思考するだろうか?

 

私は、「私」について思考しています。

「私」の追求が無能な私の生き方です。

下記のリンクは私が今までした「私」の追求の考察です。

uenokoeda.hatenablog.com

uenokoeda.hatenablog.com

uenokoeda.hatenablog.com

 

掘り下げて掘り下げて、まだ掘り下げて。

求道者として生きていくのも大変です。

と言っても最近は仕事に追われてとっぴんしゃんな感じで、「私」の追求が疎かになっていました。

上記リンク以外でも内面の追求記事を書いてますが、久しぶりの思考記事でサッカー日本代表がゴールを決めた時のサポーターのようにテンションが上がっています。

まあ、でも、さらっと書いてどんどこしょっとします。

 

さて、最後に思考した時は、どうして私は「私」を追求するのだろう?と考えました。

しかし、どうにも答えが動き回る子どもを撮影しようとした時のピント合わせくらい定まりません。

今は自動でフォーカスされるか?私の場合は変な拘りで手動でやろうとしているようなものです。

神などと言う超越者を持ち出して、ぼやけた答えに行き着いた間抜けです。

 

ならば、視点を変える必要があります。

思考するモノを「人間」以外に求めてみます。

即ち、冒頭で掲げた「犬」は犬自身の在り方について疑問に思い、思考するかどうか?

 

そも、思考とは何か?まずは大体の概要を書いてあるWikipediaを参照します。

下記の引用は、Wikipedia冒頭の記述です。

思考(しこう、Thinking)は、考えや思いを巡らせる行動であり、結論を導き出すなど何かしら一定の状態に達しようとする過程において、筋道や方法など模索する精神の活動である。広義には人間が持つ知的作用を総称する言葉、狭義では概念判断推理を行うことを指す。知的直感を含める場合もあるが、感性や意欲とは区別される哲学的には思惟(しい、しゆい)と同義だが、大森荘蔵は『知の構築とその呪縛』(p152)にて思考と思惟の差について言及し、思惟とは思考を含みつつ感情なども包括した心の働きと定義している 

 

まず、思考とは、「考えや思いを巡らせる行動」であるということ。

具体すると「結論を導き出すなどの何かしらの一定の状態に達しようとする過程において、筋道や方法などを模索する精神の活動」と、あります。

 

「何かしらの一定の状態」とは、この場合は「私が「私」を深く理解している状態」であり、そのための模索をしています。

では、犬は思考をするのでしょうか?

 

例えば、「結論を導き出す」と言うのは、犬で言えば、「おすわり」や「お手」などの芸をすれば餌を貰えることを指すのでしょうか?

いいや、違うでしょう。

犬は「おすわり」や「お手」をすると誉められて餌を与えられるが、その試行錯誤をしているのは餌付けている人間の方です。

犬自身が「餌を貰えるという状態」にするために「筋道や方法を模索」した結果ではありません。

 

なら、山奥で生きている野犬が「獲物を食べられる状態」はどうでしょうか?

この場合は、思考していると言って良い、と考えます。

野犬は「獲物を食べられる状態」にするために犬自らが「筋道や方法を模索」します(縄張りを作る、集団で囲って狩りをするなど)。

 

では、ペットである犬と野犬の違いは何か?それは自立しているかが重要と考えます。

ペットである犬は人間に依存しているため、犬自身が思考して「餌を食べられる状態」に持っていく必要がありません。

それに対して、野犬は生きていく為には、野犬自らが思考しなければならない状況下に置かれているからです。

 

ある種の隔絶された、閉鎖された状況だと、思考するのでしょう。

そう考えると、私が「私」について思考するのは、私がぼっちだから。

人間社会から隔絶、閉鎖された状況に置かれて、私が思考をし始めます。

今、思考ができていないのは、人間社会の歯車に依存、包括していて、思考をする必要が日常の中から追い出されているのでしょう。

思考とは、内面へ向かう行為ではないでしょうか。

 

話が逸脱しましたが、犬が「何かしらの一定の状態」になるには、閉鎖された環境に置けば思考するでしょう。

 

では、犬はどのように思考するのでしょうか?

「思考」とは「言葉」にできなければ、「思考」していないと同義とコピーライターが言ってましたが、犬の場合、「人間」の言葉を持ち合わせていません。

即ち、犬は犬の言語で思考することになるのでしょうか?

 

犬が「わんわん」と考えて「わんわん」と模索し、「わんわん」と何かしらの一定の状態に達しようします。

この時、犬にとって全ての「わんわん」は全くの別物であり、犬自身に置いて「わんわん」は意味のある言語です。

 

ただ、「わんわん」の幅は恐らくそれほど広くないでしょう。

犬はどちらかと言えば、嗅覚で物事を判別しているように見えます。

犬の嗅覚は、人の1億倍と言われています。

人が知覚するより多くの情報を犬は嗅ぎ取っています。

自らの鳴き声、「わんわん」で思考するより、嗅覚で知覚した情報から導き出す方が早く結論に辿り着きそうです。

種が違うのだから、人間と同じスタンスで思考すると考えるのは違うかもしれません。

 

犬が「私」を思考するとするならば、嗅覚で思考すると考えるのが自然でしょう。

 

ここで、犬が犬自身の「私」について思考するか?に戻ります。

 

まず、ある種の内面へと向かわざる得ない閉鎖された環境であり。

その中で嗅覚を用いて、犬自身が「私」へと向き合う状態。

そのことはあるでしょうか?

 

前提として、私は犬は思考をすると定義しています。

また、犬自らの独自の思考方法もあるとしています。

 

犬が「私」について思考するということはポジティブな面ばかりではなく、ネガティブな面と向き合っているとも言えます。

じっとしていた犬が、突然「うわおーん」と鳴きながらゴロゴロし始めるか?

または、急にハイテンションになって池の中に飛び込んで、出てくる時はテンションがた落ちでずっくらむっくら歩くか?

…何か有りそうで、無さそう?如何せん、人間視点だから、「病気か?」と心配するのが先になります。

いや、人間でも同じ事をすれば、同族から「良いカウンセラーを紹介するけど?」と心配されるでしょう。

 

ただ、一つ私の中で分かったのは、「私」としての概念はやはり人間が考えたものであるでしょう。

「概念」という物自体、人間が作り出したものだから、犬の思考を人間の思考に当て嵌めるのは間違いだったかもしれません。

あえて、言い切る。

 

犬の思考する「私」と人間の思考する「私」は別種だ。

 

犬が思考する「私」は、犬の嗅覚によって形作られているでしょう。

人間が思考する「私」は、人間の言語によって形作られてます。

嗅覚での犬自身の「私」と言語での人間自身の「私」では、言葉に尽くせないほど違うでしょう。

 

…うーん、ぼやけるな。ぼやぼやだ。

しかし、野犬云々の下りで意外な発見がありました。

思考はこれだから止められません。

何かしら、一定の距離感、相手と「私」との間があるから「私」というのが意識するのかな?が今回の収穫…にしたいです。

 

もっと考えよう。足りない言葉で考えよう。そうしよう。

何はともあれ、これで良し。