不安を取っ掛かりに考えます。
エゴイストで偏執狂な私が、また懲りずに内面について書き連ねる。
「私」を連呼して、同じ問答を繰り返し、一歩進んで二歩下がること幾早々。
「私」に執着したために、内面深くにある、痛みを伴う何かを消耗している。
それでも止めずに、痛みがあるから、自らを規定できると信じて、こうして一つ記事を書く。
私にとって必要な、儀式にも似た作業だ。
さて、以前下記のような記事を書いた。
この記事で、私は「私を大事にする」ということについて真剣に思考している。
しかし、「私を大事にしよう」と考えると不安がネズミ算式に募り、恐ろしくなって「私を大事にしよう」と考えるのを止めた。
あんなに情緒が不安定になるとは、考えもしなかった。
私が「私」を思考する上で、この問題は捨て置けない。
私は、「私」を大事にしようとすると不安になるのは何故だろう?
不安になるとはどういうことか?
今回は、下記リンク先記事を参考に 考えてみた。
(前略)
ひとはどんな時に不安になるかと言うと、自分でコントロールできないことがあると、不安になります。
そしてコントロールできない程度が強くなればなるほど不安も強くなります。
自分でコントロールできないということは、言い換えれば 「結果が読めない」という事です。私たちは、その不確実性を「不安」として感じるのです。
(中略)
不安で困っている患者さんの話を聞く限り、 代表的なものとして
・人間関係
・未来が多いようです。
これらは自分の努力のみではコントロールできません。
洗脳でもしない限り、意志を持っている「人」を、完全に コントロールすることは不可能です。仕事や恋愛などの人間関係で不安を感じて悩む人が多いのは相手を自分で100%コントロールすることができないからです。
実際に営業職などの対人関係が多いお仕事は 「不安」で悩む頻度が多く、精神科・心療内科を訪れる頻度も高い印象があります。
また、未来も誰にも分からず、不確実なものです。「明日私は絶対に生きてますよね?」 という質問は、どんな名医であっても「YES」とは答えられないでしょう。
不安とは「自分でコントロールできない、不確実なこと」とある。
つまり、私は「私を大事にする」ということをコントロールできていない、ということ。
確かに「私を大事にしよう」と考えると情緒が不安定になり、息苦しささ頭痛がする、感情や心身をコントロールできていない。
また、不確実なこと、「私はまた間違えたのではないか?」と言う猜疑心がある。
いつも自分との約束を破ってきた、何気ない一言で人を落胆させた等、私の愚行は際限なく、私を奈落の底へと落としていく。
「間違えていたら、どうしよう?」
これが私が「私を大事にしよう」とすると不安になる原因だろう。
「間違える」とは一体何を「間違える」というか?
私の不安は下記リンクに記されていた。
危険な思想はいつか危険な言葉を言い、それがいつか危険な行動へと移る。
そうした行動がいつか「危険なことをすること」を習慣となり、いつか危険な性格へとなる。
そして、危険な性格の人物の運命は勧善懲悪の理に従い、罰を受けるでしょう。
だから、危険な思想は怖がられるのです。
例えば、酒鬼薔薇聖斗、加藤智大、植松聖などの重大事件を起こした人物がいる。
彼らの危険な思想があった、だから、あの重大事件が起きた。
そして、おぞましいことに、私も彼ら犯罪者と同種である。
もし、このような危険な思想を持った人間を大事にしなければならないとなったら…私は怖くて仕方がない。
社会に多大な危害を与えてしまうのではないか?普通に生活をしているつもりになってはいないか?
ちょっとした切っ掛けで、誰かを傷付けて悲しませてしまう、屑を大事にするなんて、血も凍るような気持ちだ。
例えば、太宰治、中原中也、石川啄木のような迷惑を迷惑と考えていない人物がいる。
借金をして豪遊したり、親の仕送りだけのニート生活だったり、社会性の欠如した人間だ。
彼ら文芸人ともまた、同種である。
ただ、一つ決定的に違うのは、彼らは世を動かす才能があり、私は自分さえままならない無能であるということだ。
もし、こうした駄目人間の上、才能もない無能を大事にしなければならないとなったら…私は絶望しか見えない。
怠惰な毎日を少しでも改善しようとしているのか?人に認められる努力をしているのか?
そうした積み重ねを一切せずに、ご大層に「私を大事にする」など傲慢が過ぎる。
一体、どうすれば良いのか…?
上記の「不安を解消する、6つの考え方」を再び参照する。
(前略)
不安から完全に逃れることは可能でしょうか?
それは、不可能です。
未来・将来がない人はいないし、それを考えないひともいません。人は不安から完全に逃れることはできないのです。
もし仮に、「不安がまったくない世界」があったらどうでしょうか??
不安で悩んでいる方にとっては、夢の世界に感じるられるかもしれませんが、果たして本当にそうでしょうか?
不安がない、という事は、全てに確実性があるということです。すべての事象は自分の制御下です。
自分の行動に対して、相手がどのような反応をするのか、手に取るように分かる。明日、何が起こるのか、全て把握している。という事ですよね。 確かに、これなら不安は感じないでしょう。
「明日の商談の成功率は100%。絶対に失敗しないことが分かっている」
「明日、事故に遭う確率は0%」こう分かっているので、明日への不安は0です。
でも、それって楽しいでしょうか?
私なら、生きる意味を失ってしまうと思います。分かりきった毎日をただただ過ごすのは非常につらいことだと思います。全て決まりきった人生を決められた通りに生きていく。不安はなくなるかもしれませんが、生きる楽しさやワクワク感もありません。
このように「不安のない世界」を考えてみると、不安というのは必要なものでもあるのだ、という事が見えてきます。
過剰な不安が害なだけであって、適度な不安は人生をより豊かにするために、必要なものでもあるのです。
私たちは不安から逃れることはできません。しかし、不安は私たちにとって必要なものでもあるのです。
この事に気づくと、 不安は、敵対視するのではなく、
「上手く付き合っていく必要があるもの」
という捉え方をすべきだと気づきます。まずはこのことに気づくことが、不安を上手に解消する第一歩です。
…なるほど?適度は不安は必要か。
不安がなければ、生きる目的がなくなるとは、面白い視点だ。
そして、ふと下記の記事を書いたことを思い出す。
タイトルで書いている通り、内面の追求が私の生きる目的だ。
………つまり、内面を追求している時、私は「私を大事にする」ことができている?
灯台下暗し、すでに私は自分を大事にしていたとは…
ただ、この方法は、私の弱さ、無能さ、危険思想である、私の内面の全てを掘り起こすことで成立しています。
これは、果たして、忠言して頂いた皆さんが思い描く、「私を大事にする」ことだろうか?
自らを否定することで、世界を肯定する作業に意味を見出していた訳だ。
皆さんが言うのは、「自らを肯定して、世界を肯定する」ことだろう。
すると…内面の肯定が鍵になる?嗚呼、また不安になってきた…
ある意味、「私を大事にする」ことを考えると不安になる、というのが最も私らしい個性と言えるだろうが。
何を肯定すれば、私の負担にならず、私を大事にすることに繋がるのか?
それでまたふと思い出す。
求道者…「私を大事にする」ことを考えるに、この定義を徹底が必要だろう…
求道者を突き詰めれば、自ずと私は私を大事にできる。
………………………ハズ。もしかしたら、間違えているかもしれない。
しかし、様々な思考から、確からしい方向だと推察する。
この方法が一番確実で、皆さんとのズレが少なくなると確信する。
そして気付く。私が「私」を思考する意味はここにあるのではないか?
あえて、言い切る。
「私」を規定する思考は、私を大事にするためだ。
ミクロ視点、私が「私」を思考するのは、自己肯定を求めていた?
にわかには信じられないが、過去の記事からそう結論付ける他ない。
ここに来て、ブログに記事を書いたのが幸いするとは…瓢箪から駒とはこのことだろう。
マクロ視点での私が「私」を思考することや、求道者としての私とは何か等、考えるべき事柄は多々あるけれど。
一先ず、私にとって有意義な記事が書けたことを祝福しよう。
空っぽな私の中に小さな「私」を見つけられたことに、乾杯。