ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

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10月12日でのことを書いている。

1行書いては、「この表現で良いのだろうか?」、「この言い方で良いだろうか?」と推敲する。

序文の最初1000文字を書くのに、1時間以上かかっている。

 

このペースだと、今年中に書き終えられるかどうか…

比較して、興が乗っている今日でさえこの調子なのだから、果ての無さに膝が着きそうだ。

一応、楽しみに待っている人が居るので、書き上げるつもりだ。

 

タレント(?)の林修さんが起承転結について見解を述べていた。

曰く、「起承転結の文章を書くのは、(文章を不得手な人、書き慣れていない人には)無理だ」とのことだ。

林修さんの論で言えば、起承転結を文章の構成として教えるのは間違っている、らしい。

 

要は、「転」の部分の捻り具合と「結」のオチへの持っていき方の問題だろうか。

元々は起承転結の構成は漢詩を作る上での構成である、とも紹介されていた。

その時に、以下の例文が提示されていた。

 

起 「京の三条の」糸屋の娘

 

承 姉は十六妹十四

 

転 諸国大名は弓矢で殺す

 

結 糸屋の娘は目で殺す

 

 

京都に糸屋の娘が居て、姉が16歳で妹が14歳だ、とこれが起承の部分になる。

転の部分で「諸国大名は弓矢で殺す」と急に荒々しくなって首を捻る。

糸屋の娘は目(色気)で殺す、と結で落としている。

 

弓矢で殺すと目で殺すを掛けている上に、猛々しい男たちを手玉に取る娘を想像できる構図、みたいだ。

例文としてよく紹介されている漢詩であるようで、完成度が高いのだろう。

この4行を書くのに一体如何ほどの時間を費やしたのだろうか?

 

林修さんは起承転結での指導を否定していた。

一律に起承転結の構成を教えることには賛同できるが、起承転結の構成方法での文章構成を教える事自体は良いと考える。

要は向き不向き、起承転結の構成の書き方が書き易い人もいるだろう。

 

私は結構、起承転結に助けられた。

別段、捻りを加えなければ、とか、オチをどうしようか、とかそこまで深く考えていない。

文章構成に起承転結の順序でも良いように感じる私は、林修さんの論に懐疑する。

 

深く考えていないから駄文に成り易いのでは?という鋭い指摘は、勿論、私の中で封殺する。

諸国大名も糸屋の娘も私の書いた駄文の中で死に絶えるのだ。

名文形無し、駄文これに極まり。

 

今、推敲している文章は駄文に成り果てるのだろうか?

真面目に考え始めたら、1行さえ書けなくなりそうだ。

駄文形無し、何も語ることは無し。

 

1時間かえ、駄文拵え、投稿する。