1000記事目を1万文字で綴ってみた。
本文は下記より。
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目次
- 1、はじめに。
- 2、私の4つの人生哲学について。
- 3、残りの3つの私の人生哲学について。
- 4、35歳の私のやる「無料コミュニティ」について。
- 5、私の表現について。
- 6、「2000円分の楽しいことを教えて下さい。」について。
- 7、おわりに。
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1、はじめに。
玄関から外に出れば、庭先の梅が咲き誇っているのが目に入った。
彼の梅は、数年前は腐ってしまった親の梅の木の根元から伸び生えた小枝であった。
それが今や私の背を越え、見事に春の訪れを体現していた。
ここまで大きくなったのは、土のお陰か、天候のお陰か。
その可憐な様子を慎ましく、梅の花は咲いていた。
私にとって32度目の春に溶け込む梅の花は、私の春の景色に欠かせない存在だ。
当ブログが開設されたのは、2016年9月3日である。
今日は2019年4月6日、およそ2年と7ヶ月の月日が費やされている。
私も当ブログを作ってから2歳と7ヶ月、歳を取った。
詰まらないことを是とし、「継続」することに拘り続けた2年7ヶ月だ。
時に冗長な文を書き、時におざなりな短文を書き、また時には巫山戯た記事を書いた。
日々、私の中での変化を捉え、書き起し、書き殴り、書き倒した。
そうして、小さなことを積み重ね続けて、遂に至る。
当記事にて、総記事数1000記事目となる。
私にとって、これほど意味のあることはない。
続けることができなかった。
いつも最初だけで、次第に勢いがなくなり、結句何も残らない。
そうした繰り返しを、今、脱したのだ。
この喜びは何と表現すれば良いのだろうか?
じんわりと広がるチョコレート、漫画の中の独特な言い回しの台詞、下ろし立てのスニーカーの靴ひもの蝶々結び___
ああそうだ、庭先の梅の白い花のような、誇らしい喜びだ。
顔は真顔であるが、内心は小躍りしている。
春爛漫に喜色満面なきしょい顔面の男が感嘆の声を上げる、心の中で。
1000記事、数字の上でも中々に大きい数字ではないだろうか、と自分で自分の肩を叩く、頭の中で。
私にとって当ブログは、私の日常に欠かせないものとなった。
これからも徒然と書き恥を晒していこう、と決意する。
今度の目標は2000記事、遠いが可能であることは実証済みだろう。
さて、折角の1000記事目なので、何かしようか?
今日はすこぶる気分が良い。
ふと、1万文字くらい書いても良いのではないか、と浮かぶ。
1万文字も何について書けば良い?
いや、何を書いても良いではないか。
何故ならば、「詰まらないことを延々と書く」ことが骨子なのだから。
大体、1000文字、10章毎に分けるような感覚で書いていけば良いか。
そう言えば、1万文字は初めてかもしれない。
浮き足立ち過ぎて、ちょっと心配になってきた。
杞憂だろうか。
杞憂かもしれない。
成るようにしか成らない、さっさと書いてしまおう。
2、私の4つの人生哲学について。
私の人生哲学を作ろう、と考えて幾日だろうか?
結構な時間が過ぎたような気がするし、最近のような気もする。
兎角、何時だったかは忘れてしまう位の日数は経った。
その私の人生哲学の柱は7つにしようと決めていた。
7は書店で平積みされるもので多い印象がある数字だからだ。
それに7つもあれば、多面した視点で私の人生哲学を考えられる、というメリットを感じた。
その7つの内、4つは既に決めていた。
普段から口にしていたことであったり、前からあった考え方であったりと決める手立てがあった。
それが、『今を楽しむ』、『「私」という自意識を追求する』、『ネガティブ方向にポジティブにいく』、『「知」を集積する』の4つだ。
2-a、今を楽しむ。
今この瞬間を楽しむとする思想だ。
この「楽しむ」とする姿勢は、実は自分の好きなことをする、と言う意味ではない。
ありのままのことを受け入れて、その事自体を楽しむ、という意味だ。
よく私は例えで出すのが、演目としての悲劇だ。
悲劇は内容は切実として、悲しい。
しかし、その悲しい演劇を観客は楽しめる訳だ。
日常において、良いことや嬉しいことはある。
そして、嫌なこと、億劫なこと、憂鬱なこと、腹が立つこと、悲しいこともある。
それらすべてを一度自分の中に受け入れて、その感情を楽しもう、とする考え方だ。
究極で言えば、不幸になったとしても、不幸であることを楽しむ、とする姿勢だ。
私は私の今を味わい尽くしたいのだ。
そうした姿勢を貫きたい。
2-b、「私」の自意識の追求。
忙しい中でも、私の哲学として専ら考えていきたい。
「私」の自意識の境目について、もっと他の人も考えても良い。
何をもって「私」とするのか、自分を知るのは今後の人生行路に役に立つはずだ。
今は私の興味は、言葉は何時から「私」に成るのだろうか?というものだ。
人から例えば何かを聞いたとして、その言葉は脳に記憶される。
脳に記憶される前と記憶された後では、「私」の構成は変わっている。
脳のシナプスが記憶しようと構築されていくのは科学で証明されている。
それはもしかしたら、言葉を聞いたら、「私」の自意識の境目も変化することになるのではないか?
そう仮定するならば、言葉は何時から「私」になり、何時から「私」ではなくなるのであろうか?
疑問は尽きない、この考察が人間理解に繋がれば面白い、と考える。
そして、この考えが私の一面として語れるものにしたい。
「「私」の自意識と言えば」というような人に成りたい。
2-c、ネガティブ方向にポジティブにいく。
最近は、意外と重要ではないか、と感じた。
あるイベントで「嫌な奴と暮らすにはどうすれば良いか?」というテーマでざっくばらんに話し合いをした。
その中で「嫌な奴を自分から切り離すと、自分のキャパシティが小さくなる。嫌な奴のような雑味は必要だ」とする意見が出た。
私はその通りだと考えた。
明らかに自分とは考え方が違う人間とは相容れないかもしれない。
しかし、その違いを受け入れれば、自分のキャパシティが拡がる。
第一に全員が全員、ポジティブに成りたがり過ぎる。
ポジティブになろうとすることは良いことではある。
しかし、だからと言ってネガティブになってはいけない、とは誰が決めたのだろうか。
もっとネガティブに、もっと雑味を。
そうしたノイズの集まりが、壮大なバックグラウンドミュージックになる。
私はその中に居たいのだ。
2-d、「知」を集積する。
「知」や集積の単語は、それぞれ別の人からの言葉からだ。
1つは私が読者登録しているブログの記事から、もう1つは安曇の朝活で知り合った方の話しから。
私の中で化学反応を起こして、こうした指針と成った。
しかし、この指針自体は、私の中で既にあった。
「これは一体なんぞや」と問い、考え、自分なりの解を見付ける。
そうした作業が好きだったことが根底にあったのだ。
色々なことを知っていきたい。
その色々なことを自分なりに問い、考え、解を探す。
その繰り返しをし続ければ、確からしいことに繋がるだろう。
この「知」は知識としてではなく、私の中で落とし込めた考えや答えを指す。
そして、その考えや答えを集め、積んでいく作業をする。
私はこれからも考え続けていく表明でもある。
意外と1つ1つ深いのだ。
言葉にしてみて、こういうことだろう、とまた気付く。
もっともっと骨太にしていくつもりだ。
3、残りの3つの私の人生哲学について。
私の人生哲学の残りの3つだが、急にスパークした。
『ありのままを認める』、『くらべることは良しとする』、『余白を大事にする』だ。
まだ深堀りはできていないかもしれないが、端的に書く。
3-a、ありのままを認める。
私が発言した数々を集約した結果の言葉だ。
私の人生観で一番よく言った言葉は、「有るなら有るで良いけれど、無いなら無いで良い」という文句だ。
若しくは「それはそれ、これはこれとする思想」とも言い換えていた。
例えば、恋人は有ったら素敵だが、居なくても構わない、とする受け身の姿勢だ。
お金は有ったら嬉しいが、無くても無いなりにどうにかする、とする諦めの境地だ。
万事そうした考えの元で行動していたので、自分のことを説明するのに用いていた。
また、不便を許容するとする姿勢が大事だと説いたことがある。
人それぞれ許容できる範囲での不便を受容すれば、もっと生き易い世の中になる、と考えたのだ。
この考えは東日本大震災のときに発露したのだが、今でも自分が許容できる不便は受容しようと考えている。
これらの思想を1つの言葉に直したのが、『ありのままを認める』だ。
これは『今を楽しむ』の楽しむから着想した。
そして、どの考えも相互に関わり合っている、とこの時に感じた。
まずは認めようとするのは、大事ではないだろうか。
人と違う考え方を理解できなくても、「あなたはそう考えるのですね」と言うのはそんなに難しくない。
最近よく用いている言い回し「私は私で楽しむけど、あなたはあなたで楽しんでね」、相手のありのままを認めれば良いだけの話しだ。
3-b、くらべることを良しとする。
もう少し過激な言い方をすれば、くらべることは正義だ。
どちらがより優れているか、の競争性に注目されがちだが、そこではない。
どちらがより良いのか、とする問いかけとそこからの進歩が大事なのだ。
「良」という字は、米を古いのや傷んだのを振り分け、艶や実がしっかりとした米粒を選ぶことから成り立った説がある。
くらべることによって、選択する幅が生まれるのだ。
そして、より良い社会を作ることは、社会正義そのものだ。
「私」という自意識は何をもって「私」とするのかは、他者の存在が大きい。
そして、「私」と「あなた」の存在の違いはくらべることで分かるのだ。
くらべることで違いが分かり、「私」と「あなた」を分け隔てるのだ。
皆同じで良いのであれば、違いなど必要ない。
没個性の世界も良い、とする思想も認めよう。
その上で、私はくらべることがより良い社会を作ると主張しよう。
そも、多様性の時代、争うことが好きな人も居ても良い。
先に述べた雑味の部分だ。
世界はもっと寛容であれば、くらべることの争いなど些細なことでしかない。
3-c、余白を大事にする。
閃いたのは良いが、次が難しい。
何故なら、しっくりと来ているが、今までとちょっと違う感じがするのだ。
つまり、私の知らない私の側面、と言ったところか?
残りが後1つとなった時にふっと脳内に滑り込んだ。
余白、何もない状態は遊びができるのではないか、と感じた。
ぎちぎちに決めるのは、私の人生設計に合わないようにも感じていた。
多くの人が余裕がないように見受けられる。
いや、私も含めて、余裕がないのだ。
何かに追われて、目の前のことに終始してしまう。
だから、人生には余白が必要だ、と感じた。
遊びのある余白、そこを大事にすれば、私の人生哲学も活きてくる予感がする。
生まれたての指針なので、これからゆっくり育てていきたい。
4、35歳の私のやる「無料コミュニティ」について。
さて、今までの私の人生哲学の体現をしようと考えている。
それが「無料コミュニティ」の作ることだ。
場所の提供を無料でするスペースを作りたいのだ。
安曇野市は大変に風光明媚な山々に囲まれている。
威厳ある日本アルプスに直中、朝日は神々しく、夕陽はノスタルジックだ。
しかし、悪く言えば、安曇野市は中途半端な田舎だ。
貸し会議室、というスペースがある。
1時間辺り何円で貸すというものだ。
外での会議で利用する人もいるだろう。
また、ファミレスや喫茶店で話しをする人もいるだろう。
その場合は、コーヒー1杯でも注文するのだろうか。
何れにしても、お金がかかる。
私はまず、そうしたお金が発生しない場所が欲しい、と考えていた。
何かをやろう、とするのに一々何円かかるとか煩わしいし、負担が大きい。
無料にすれば、利用する人の負担が減って、よりファンタスティックなことが起きることだろう。
また、この「無料コミュニティ」は「やりたい人はやりたいことをして良い」場であると同時に「やりたくない人は何もしなくて良い」場でありたい。
違いを認め合うというのは、やりたい人とやりたくない人が共存できる場であるということだ。
そも、無料コミュニティを利用する人は、うっすらと人との繋がりを求めているのではないか、と邪推する。
それぞれを具体してみた。
また、「無料コミュニティ」の外観についても言及してみる。
あっちいったりこっちいったりとまとまりがないが、ご容赦願いたい。
4-a、「やりたい人」。
やりたい人がやりたいことができるような場だ。
1つはある程度の人数が入れる部屋だ。
話し合いをするのに使ってもらうスペースだ。
備品として、ホワイトボードくらいは用意しておこうか。
それから、簡易キッチンとトイレは必須だろう。
わいわいしながら楽しんでもらいたい。
また、所謂、表現者のためにステージが欲しい。
演奏や演劇などができて、イベントの会場にしてもらえたら良い。
場所の提供自体は無料であるが、イベントで発生した料金の何%を運営資金として収めてもらうのはどうか、というアイディアも出ているが、そこは要検討だ。
防音設備をしっかりしたい。
また、音響設備も欲しい。
ここら辺は門外漢なので、分かる人が色々と用意してもらえたら、と丸投げの姿勢だ。
また、個展などが開けるようにしたい。
これは話し合いの場とは別の部屋があれば、会場を別にできるのではないか、と考えている。
人の話している後ろを人が居るのは、お互いに気が散ってしまうだろう。
庭でもあれば、焚き火などのアウトドアもできるようにしたい。
ただ、室内とは違うので、どう取り扱えば良いか分からない。
いや、簡易キッチンでも消火法があるか、と書いていて気付く。
4-b、「やりたくない人」。
やりたくない人はどういった人であるか。
まずは家では誰かがいて、1人になれない人だ。
家ではとやかく言われて落ち着かない、そういう人の避難場所として機能したい。
また、うっすらと関わり合いを求めているが、いきなりグイグイ来られても嫌だ、という人もいるだろう。
自分のペースで輪の中に入りたいし、入りたくないのだ。
そういう「自分のペース」をある程度保証したい。
つまり、まずは個室が欲しい。
個室の中はできるだけ簡素にする。
持ち込みは良し、ゴミもそのままで良し。
問題は、うっすらとした関わり合いをどうするか。
つまり、ドアの下は見えるようにした方が良いのか?
しかし、それだと落ち着かないような気がする。
個室だと様々な問題がある。
無料だから、変な話し、居座られる可能性もある。
個室に限って言えば、ルールを設けた方がトラブルが回避できるか?
また、宿泊は何か申し出が必要なのだろうか?
家に帰りたくない人もいるだろうから、その場所としたい。
しかし、一時的であって全面的な解決ではないのが厳しいか…?
考えるに難しいが、兎に角も個室は用意する。
2部屋あれば十分だろうか。
やりたくない人が安心できるようにしたい。
4-c、外観。
最近、リフォームするならどんな外観が良いだろうか、と夢想した。
恐らく、格安物件で買うとなると、山の中になるだろう。
そうなると、静寂な森の中にある一軒家、となる。
とするならば、私は「魔法使いの住む家」のような外観にしたい。
もう少し付け足すなら「田舎にある魔法使いの住む森の家」のような外観だ。
それぞれがイメージするものと私がイメージするものは、多分に違うだろうから、その説明をする。
まずは、外壁を金属の波板で覆いたい。
茶色く錆びていれば、尚、良い。
掘建て小屋のような雰囲気だ。
それでいて、幾何学模様が見える場所が欲しい。
丸ガラスの窓があると魔法使いの家っぽい。
贅沢を言えば、家から木が生えているのが良い。
拘りたいのは、箒をどっさり用意したい。
そして、自転車置き場宜しく、箒を駐輪させていたい。
魔法使いといえば、箒だろう。
それから、大きな土瓶がどーんと欲しい。
玄関までの道は緑のトンネルが良い。
最終的には波板に蔦が這わせてしまいたい。
極めつけは、ランタンを玄関に飾りたい。
そう、箒の次にランタンは重要、魔法使いっぽさが出る。
箒とランタンは必要経費として用意しよう、そうしよう。
こんなところか…
これからまだまだ詳細を詰めていきたい。
できれば、知見のある人に意見を求めながら、考えを深めたい。
5、私の表現について。
私はこの無料コミュニティを作るのに、私自身、表現を行いたいのだ。
しかし、私が表現するものは空想ばかりで現実ではなかった。
全く、私は人に影響の無い人間なのだ。
しかし、今年の5月に私は表現として一歩踏み込もうとしている。
表現は何かを伝える行為であるならば、私が伝えたいことはたった一つだ。
5月にその想いを吐露するから、今はここでは書かない。
問題はその先だ。
つまり、私が伝えたいことを表現し続けるにはどうすれば良いか、である。
一歩踏み込んで終わり、では恐らくないだろう。
とは言え、一歩踏み込んだこと以外の部分での表現の発露は行えている方ではないだろうか?
人前で話したり、低クオリティながらもパフォーマンスをしたり、技術面の未熟さはあるが、行動にはしている。
行動するだけならそれなりの自負があるから、実が伴えば良い線をいくことだろう。
上記を踏まえた上で、本を書こう、と考えている。
上記と言うのは、それこそ、私の人生哲学の7つも然り、無料コミュニティも然り、私の表現も然りだ。
文章を書くことが今のところ一番、私の表現をするのに適しているようなのだ。
とは言え、まるまるすべてを踏まえると、何が言いたいのか分からなくなりそうではある。
現にこの記事も何が言いたいのか分からないだろう。
考えている端からカタカタと書いているから、ある意味で私の脳内に一番近い状態の記事なのかもしれない。
兎に角、一本、本を書く。
そして、アマゾンに出す。
もしくはノートで出す。
一番は、「〇〇を取っ掛かりに考えます」を書籍化するのが早い。
または、私小説「あなたが眠るまで。」を書籍化した方が受けが良いか?
この記事を読んでもらう、と言うのが現状の私を説明するのには良い。
選択肢が無限にあって分からなくなる。
ここら辺の相談もしたい。
やりたいことがあり過ぎて、困る。
そして、この本がそれなりの実績が生まれたら、動画を撮ろう、と考えている。
私は映画監督になりたいのだ。
映画もそんなに見ないし、撮影は素人なのに、だ。
撮影はできる人がして、その脚本を書く方向が良いのかもしれない。
ただ、私の出す本はニッチであろうことは間違いないので、映画にしようとする人はいないだろう。
なら、私が映画を撮ってしまえば良い、というのが今の気持ちだ。
まだ本の構成も考えていないのに色々と先走り過ぎた。
逸る気持ちは欠伸で殺そう。
さて、大きく話しを前に戻そう。
6、「2000円分の楽しいことを教えて下さい。」について。
現在進行形で進めている企画だ。
破竹の勢いで楽しいことが集まっている。
現在は30人ほどが参加している。
チラシには「100人の楽しいことを知るまで」を期限としている。
しかし、何て言うか、数えるのが面倒になってきた。
なので、大体100人は越えたかな、のところまでやろうと考えている。
当初はこの企画の目的の1つ、私の人生哲学の7ヶ条を作るために活用しようとしていた。
しかし、前述した通り、もう7つ出てしまったのだ。
いや、有り体に言えば、2000円企画と7つの指針はあまり関係がなかったりする。
細かいことは気にしないでおこう。
この企画をしていると、たまに聞かれる質問がある。
「2000円を貰わなくても、楽しいことなら教える。何故、2000円を支払うのか?」
6-a、私にとってのお金とは。
例えば、10万円があったとする。
その10万円で楽しいことをしよう、となると私は遠出をする。
福岡県と山口県で遊び倒した時は、往復の移動代と宿泊費に食費、交遊代諸々含めて8万円かかった。
10万円あれば、結構な豪遊ができる。
安くしようとすれば、北は北海道、南は沖縄県まで行けるだろう。
何なら、アジア圏なら工夫すれば行けるのではないだろうか?
例えば、 500円があったとする。
その500円で楽しいことをしよう、となると私は漫画を買う。
大体、単行本は410円で1冊が買える。
500円あれば、ゆっくりと過ごせる。
単行本1冊でお気に入りは何度も読み返す。
何なら、駄菓子も買ってちょっと優雅にしても良い。
では、10万円と500円、どちらがより楽しいか?
私の答えは、どちらも同じくらい楽しい、だ。
私にとっては遠出することと漫画を読むことは楽しいことで、差異はない。
できる範囲で言えば、10万円の方が圧倒して多い。
ただ、楽しいかどうかの観点で言えば、金額の大きさで楽しさが変わる訳ではないのだ。
楽しいことにするのに必要経費が10万円か500円か、の違いなのだ。
6-b、2000円の価値を問う。
では、2000円を支払うのはどうしてか。
それは「2000円分の楽しいこと」を相手がどう捉えるのか、それが見たいのだ。
相手によって、この「2000円分の楽しいこと」の文言の捉え方が違うのだ。
2000円という道具を使って、私は相手の内面を問うているのだ。
問われた相手は様々なことを考えるだろう。
または特に深くは考えないだろう。
そうした様々な反応を私は見て、楽しんでいるのだ。
そう、私はこの企画を楽しむのに必要な経費がたまたま2000円であった、と言うだけの話しだ。
そして、この金額設定が絶妙だったらしいことが大きい。
私も2000円にして良かったと感じる。
これが1万円だったら、途中でコンビニエンスストアーに寄らなければならない手間が生まれた。
面倒くさがり屋の私なら、その手間で嫌になっていたかもしれない。
今後も色々な人に触れ回っていこう、と考えている。
現時点で地元長野県に集中しているから、たまに県外の人に呼ばれてみたい。
今後に期待することにする。
7、おわりに。
書き始めたのは深夜1時だったか。
今の時刻は7時である。
途中、休憩は挟んだが、6時間はぶっ通しである。
たまにこういうことがある。
気分が乗っていると集中力が出る。
外でスズメが鳴いている。
両肩と腰が重い。
同じ姿勢でずっといる性だ。
石油ストーブが4度目の延長を勧めてくる。
適当に書いたが、良い案配で適当な記事になったのではないだろうか。
読むのはしんどいかもしれないが、興味がある箇所だけ摘んで読めば良い。
買い求めた最後の人参ジュースを暖めて飲むか検討する。
そう言えば、今日は朝の9時に待ち合わせだ。
顔を洗って出かけなければならない。
母が愛犬を連れて散歩に出かけた。
振り返るに、意外と書けた、1万文字だ。
しかし、やはり、長い。
ここまでの内容を3行にまとめるならば、下記になるか。
・私の人生哲学の指針ができた。
・無料コミュニティのイメージがある。
・本を書いて、映画にしたい。
おまけで2000円企画の話しをした感じか。
読み返すと、2000円企画の浮き具合よ。
隣の部屋からテレビの音声が聞こえて来た。
徒然と書く、としているのだから、これで良いのだ。
普通の、模範とされるようなブログではないのだ。
好き勝手に書いて、好き勝手に投稿する。
今日は記念すべき総記事数1000記事目であった。
そのことを記念して1万文字に挑んだ。
詰まらないことを延々と書いた。
何度も同じことを書いては投稿した。
何度も下らないことを書いては投稿した。
そうして、今日という朝を迎えた。
まだ、外は出ていない。
それでも、庭先の梅の白い花が咲いていることだろう。
私のじんわりと広がる喜びのような、梅の花が咲いているだろう。
新しい時代がもうすぐそこまで来ている。
令和という元号は万葉集の梅の歌の序文にあるらしい。
ああ、庭先の梅の花が咲いているだろう。
今日と言う日は、何かを始めるのには良い日だろう。
空が神々しく光りに満ちて来た。
青い空と青い山を万遍なく照らす太陽が昇っていく。
実はすでに蛇足ではないか、と感じている。
文字数が後少しで1万文字だから、粘って書いている。
最後の最後で勢いが萎んで来たのは、私らしいと考えるべきか?
写真でも載せよう、梅の写真を。
そうすれば、見栄えも良い。
次の目標は…もう冒頭で書いたか。
そうそう、最後に読んで下さってくれた皆様方に。
まずはここまで1万文字の駄文を読んで頂き感謝したい。
相当な重労働だったのではないだろうか、誠に感謝する次第だ。
私はこれからも自分が思い描く生き方を生きていく。
この生き方は善悪でも正誤でも真嘘でも美醜でもない。
楽しいか詰まらないか、それだけだ。
では、拙い私だが、今後ともよろしくお願い申す申す。