「世界一いい言葉欲しいです」
Twitterと連動している質問箱に私宛に届いていた質問だ。
奇妙な質問だな、としげしげと読む。
世界一いい言葉、とは何であろうか?
想像しても雲を掴むようで要領を得ない。
それも「欲しい」と言うのはどういうことだろうか?
そも、私に聞く質問なのか?
僅か33年、日本の国の片隅でひっそり暮らす、詰まらない薄っぺらい人間である私に一体何を期待しているのだろうか?
言葉遊び、暇つぶしの投げかけかもしれない。
奇妙な質問であり、悪ふざけかもしれない。
しかし、真面目に考えてみよう。
「世界一いい言葉」を私なりに発してみる。
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目次
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1、「世界」とは?
まず、語釈から決めていこう。
一にも二にも言葉の定義を定めないと答えようがない。
「世界一」というのは、「世界で一番」ということだろう。
この「世界」は何を指しているのか。
単純に考えれば、地球上の全人類、すべての国と地域を指している。
これが最も可能性があり、無難であろう。
しかし、この語釈だと私がしんどい。
何せ私が操っているのは、日本語だ。
地球上のすべての国と地域の言語を差し置いて、日本語で「世界一いい言葉」は傲慢なような気がして仕方ない。
英語やフランス語や、中国語やスペイン語などその言語だから伝わるニュアンスの言葉もあり、それらをくらべられるほど知識もない。
そも、日本国内でも方言がある。
私は所謂標準語の人間であり、長野県の方言を少し扱えるくらいだ。
日本国内限定でも、私は知り得ない言葉があり過ぎる。
「世界」を例えば界隈、事業などの一括りされた共同体を指している場合もある。
この共同体の一員としての考え方ならば、言えることもあるかもしれない。
しかし、共同体の中での「世界一」となると何を以て「世界一」なのかがピンと来ない。
界隈や事業ならば、「成長」をキーワードにして、最も成長した名称、現象、事柄などを「世界一」にするためのくらべる基準にするのも手だろう。
しかし、この手の知識がやはりない。
その上「成長」をキーワードにすれば、直截に言えば「金儲け」のことであり、億万長者の言葉が一番いい言葉となる。
億万長者の言葉がいい言葉ならば、書店や図書館に行けば良い。
そこかしこに億万長者や成功者の言葉がひしめいている。
しかし、この質問は億万長者からかけ離れた私にされている。
「書店に行けば良い」は少々無責任な気がする。
界隈に一言物申す、とも違うだろう。
つい最近、私は演劇界隈に関わっているが、私が演劇について「世界一いい言葉」を言えるはずもない。
やはりそれに対して真剣に向き合い続けた先人がすでにいる。
私如きがいけしゃあしゃあとスパッと言えるべくもない。
一個人の内面を指して「世界」とすることもある。
私個人の内面のことであれば、追求者としての自負の元、それっぽいことも言えるだろう。
しかし、私個人の「世界」は、一般的ではない。
私の狂った言葉が求められている答えではない気がする。
文末の「欲しい」というのは、渇望、不満があるのだろう。
それとも、私の狂った言葉で良いのだろうか?
そも「世界一」というが、私の内面における「世界一」とは何であろうか?
確からしいこと、絶対的なことが私の内面にあるのだろうか?
私の絶対的なものは、それ唯一であるのでくらべるものでもない。
意識無意識で大抵なことは相対できると考えている。
私の座右の銘である「今を楽しむ」は相対させることを絶対にしている。
ここは融通を利かせた方が良いのかもしれない。
つまり、「世界」は地球上のすべての国と地域を指しているが、同時に私個人の内面を起点にしている。
なので、私個人の視点であり、扱う言語も日本語の標準語であり、私が今まで経験してきた事柄の中から抽出して考えることを前提にする。
「この世界一は私由来であり、私が勝手に『世界一いい言葉』を決めてしまう」という横暴さを認めないと一個も先に進めないので、阿弥陀如来ぐらいの寛容さを以てして許して欲しい。
2、「いい言葉」とは?
次に「いい言葉」である。
これも抽象的でパッと思い付かない。
この枕にあるのが「一番」である。
「いい言葉」に「一番」などくらべるものだろうか?
人の気持ちを奮い起こすのにくれべるようなものなのだろうか?
振り返ればあの時の言葉が人生が変わる契機でした、という言葉はあるだろう。
しかし、その言葉はその日、その場所で、その人が言ったから意味がある言葉になるのだ。
そして、ここが肝要だが、その人だから言える言葉なのだ。
もし私の人生が変わる契機の言葉があるとして、その言葉は私の言葉ではない。
それは、私に向けられた、私にとって意味のある言葉であり、私の言葉ではない。
私の言葉ではなくその言葉を発した人の言葉なので、「一番いい言葉」とするにはその言葉を発した人を褒める流れになるのだろう。
しかし、そうなると私が今まで関わってきた人間の中で一番良い人間を選ぶことになりはしないだろうか?
分かりやすい基準かもしれないが、これこそくらべることができない。
どの人もその人だから言える言葉あり、その人だから意味があるのだ。
「いい言葉」を考えるのに、別の人の借り物の言葉は違う。
それとも、私の言葉でなくても良いのだろうか?
私に向けられた言葉、私が選んだ言葉であれば、私の言葉でなくても「いい言葉」として受け取ってくれるだろうか?
それならやはり「名言集でも読めば良い」となってしまう気がする。
うだうだ考えても仕様がないので、「いい言葉」について改めて考える。
「いい言葉」の「いい」が平仮名なのは意図的だろうか?
漢字の「良い」以外に「善い」、「好い」の意味も内包していると考えるべきかもしれない。
とにかく「いい言葉」なのだ。
この「いい言葉」は前向きな言葉を指していると考えていいだろう。
ネガティブ方向にポジティブにいきたい人間に前向きな言葉を欲するとは酔狂も良い所だが、それは言っても詮無きことだろう。
とにかくポジティブな言葉であることに違いない。
この前向きな意味は「良い」、「善い」、「好い」ものだ。
前提として、私が良い(優れている)、善い(正しい)、好い(好きである)というものだ。
これらすべてが含まれるとなると難しいが、これらの1つでもあれば良しとすれば広範囲でカバーできるだろう。
わざわざ平仮名にしているのだ、解釈も私が決める。
強引な解釈も菩提様のような温かい眼差しで以て許して欲しい。
3、「一番」とは?
最後に「一」である。
即ち、「一番」である。
「一番」が何を指しているのか、一番悩ましい。
上記でも捏ねくり回したが、「一番」というからには何かの基準があり、その基準と照らし合わせくらべて、順位を決めるから「一番」という言葉が出る。
この基準は何なのか。
「世界」でも「いい言葉」でも、私を準拠にするのであれば、「一番」の基準は私になる。
私が「一番」と考えれば、それが一番なのだ。
問題は何と比べるか、だ。
私の内面の中でくらべても、私の内面において絶対と相対しかない。
優劣というものではないのだ。
となれば、私の内面と対峙させる概念が必要になる。
であるなら、私の世界と密接に繋がっている外の世界を対象にすることになろう。
私の視点から見た世界と、私の内面をくらべて、その中で確からしい「一番」を定めよう。
独断と偏見の大太刀で世界をぶった切る荒技、仏の顔も三度までかもしれないが、最早こうするしかないのだ。
地獄に堕ちる覚悟はできている。
4、「欲しい」とは?
さて、語釈は決まったので、次は選定である。
ずいずいと決めていこう。
語釈では、「世界一いい言葉」とは、「私個人の視点を起点にした地球上のすべての国と地域の中で、私の視点から見た世界と私の内面をくらべて、最も確からしい私が考える前向きな言葉」のことである。
長ったらしいが、こういう語釈でいく。
さて、この「世界一いい言葉」の最後に「欲しい」とある。
欲しい、である。
私の濁ったヘドロから掬い上げるだけでは、駄目なのだ。
「言ってください」だけなら、ヘドロから掬ったのをべちゃっと投げれば良い。
しかし、「欲しい」となればやはり違う。
普通の人はヘドロを欲しがらないくらい私だって分かっている。
せめて手渡せるようにしなければならない。
どうすれば良いだろうか?
「世界一いい言葉」を私が決めて、それを「欲しい」となると、ある程度の一般化が必要だろう。
それを踏まえて、考えてみる。
5、「世界一いい言葉」とは?
一般的ないい言葉であれば、「愛してる」、「ありがとう」、「幸せだ」が世界共通のいい言葉だろう。
私視点の外の世界において、この3つの言葉は一番多く言われるいい言葉であろう。
また、いい言葉としても申し分ない。
他にもいい言葉があるだろうが、代表的なこの3つが「世界一いい言葉」の候補として上げても良いだろう。
しかし、「愛してる」、「ありがとう」、「幸せ」は果たして本当に適しているのだろうか?
私から「愛している」と言われても、気持ち悪いし気色悪いし気味が悪い。
むしろ私から言われたらテンションがガタ落ちする。
そも、「愛している」というのは愛して欲しい人から言われるから一番いい言葉になるのであって、骸骨でしかない私から言われても一番には成り得ない。
「ありがとう」は何に対しての感謝の言葉だろうか?
「生まれてきてありがとう」だろうか?
そんな言葉を吐くくらいなら、首を括った方がマシだ。
その人の人生を知りもしないのに、厚顔無恥が過ぎる。
「幸せだ」は人によって違う。
何を幸せにとするのかはその人が決めることだ。
それに、「幸せだ」は受け身の言葉だ。
いい言葉を欲する人に与える言葉ではないだろう。
では、これ以外に「いい言葉」があるのか?
考えても、まるで分からない。
私では事足りない。
「愛している」も言えない。
「ありがとう」も言えない。
「幸せだ」も言えない。
「世界一いい言葉」が欲しい人に、伝えたい言葉が出ない。
あまりに自分の薄っぺらさに頭が痛い。
目の前が真っ暗になる。
地獄に堕ちて尚、たった一言が言えない。
誰かを救いたい、と願うのは愚かだろうか?
誰も救えない、と嘆くしかないのだろうか?
地獄に堕ちて尚、天上からの蜘蛛の糸を縋るのは悪いことだろうか?
普遍的な言葉はあるだろうか?
神や仏を信じることが近道だろうか?
「アーメン」、「南無阿弥陀仏」が最もいい言葉にしてしまおうか?
しかし、それは私の言葉ではない。
言えないから、別の人間に責任を押し付けようとしている。
情けない、何のために産まれてきたのか?
部屋の小窓を見て、「諦めよう」と感じた。
私の言葉をそのままにすれば「諦めよう」になるが、前向きないい言葉にするには「諦めよう」は後ろ向き過ぎる。
だから、私由来の言葉としてのいい言葉は諦める。
その上で、私は「愛している」と選択する。
「ありがとう」と何に感謝するべきことが分からず、「幸せだ」と思える気持ちになれていない。
「愛している」なら、拡大解釈で相手を肯定しているように言える、と飲み込む、無理やりに。
相手がどう受け取るか、どう考えるか、無視する。
私の独断と偏見、そして何も言えないことへの絶望を乗せて。
傍迷惑な言葉かもしれないのに、「世界一いい言葉」にする浅薄さに吐き気がする。
それでも、在り来たりな言葉である「愛している」を選ぶ。
私のような人間に言われても嬉しくないだろう。
しかし「世界一いい言葉」として、質問主に送ろう。
地獄の底より愛を込めて。
6、真の「世界一いい言葉」とは?
途轍もなく暗い言葉になってしまった。
より誠意を以て応えるなら、無言が正解なのだ。
しかし、欲する人に無言は誠実かもしれないが、惨いことでもある。
ただの戯れなら、それで良い。
しかし、もし、もし、私の言葉で救われたいと願う人がいるとしたら。
想像するだに恐ろしい、やはり地獄に違いない。
質問箱には短く結論だけ書いておこう。
この文章を読ませた所で、何も成りはしない。
ひたすらに、私では届かないという大仰な自慰行為でしかない。
しかし、もう少し、もう少し考えよう。
何時か、それらしい答えが出るかもしれない。
「世界一いい言葉」、その答えを探してみよう。
「私」の自意識の追求に合わせて、考えることにする。
私の考える「世界一いい言葉」を追い求めておこう。
次に(次があれば良いが)同じような質問をされた時に、答えられる私でありますように。
以上で一旦、考察を留めることにする。