時期は7月2日金曜日だ。
この記事は6月1日、約1ヶ月の遅れである。
遅れてはいるが、現行に追い付けられたら良いな位の認識だ。
さて、過去記事を遡って言及しようか。
3行シリーズと共にパターン化しそうな気もする。
あの手この手で飽きから逃れようとするのが人間らしい気もする。
今回の過去記事はこちら。
割り箸を元に色々と書いている。
色々、どういう視点で語れば良いのか、で迷走している。
「割り箸の袋で作る箸置き」、「使い終わった割り箸のマナー」、「綺麗な割り箸の割り方」、「割り箸の素材は間伐材」が各5行くらいで書かれている。
しかし、この記事は割り箸云々ではなく、どういう視点で語るか、がテーマになっている。
割り箸の話をしていない。
「割り箸について」書いていないのに、「割り箸について」と嘘を書いている。
こういう何かに依託して別の事を書くというスタイルが当時の書き方だった。
良い悪いというより、まだ考えが浅かったように感じる。
今も考えが深まったか、と聞かれれば、そんなことはないのだけれど。
割り箸の切り口より、何を語るかでその切り口の意味合いも変わる。
フェミニズムで言えば、「コンビニでは男性には割り箸の有無を尋ねるが、女性には聞かない」と書ける。
環境問題なら、「森林伐採による被害を減らすために割り箸を使わない」と書ける。
その何を語るかも嘘を混ぜれば如何様にも書けてしまう。
割り箸の有無は性別に関係なく、企業の教育指導が行き届いていないだけである。
森林環境の保全には間伐は必要で、むしろ割り箸を使った方が良い。
いや、こうした視点も偏っている。
企業の教育がしっかりしていても、悪意を持って行動しているかもしれない。
割り箸は使い捨てであり、ゴミが増えることには変わりないかもしれない。
割り箸一つで語ろうとしても、割り箸一つでは語り尽くせない。
結句、私がどういうことを言いたいのか、どういう感情で物事を見ているのか、そうした姿勢が大事なのだろう。
つまり、切り口の問題は、自身の思想姿勢への問いである。
今回も割り箸は当て馬にされてしまった。
何れ、割り箸単体で物を語れるようになった方が良いのだろうか?
益のないことをぼんやりと考えて、弾けて消える。
2016年より今の方が視点が増えていれば良いと感じる、嘘の6月1日なり。