ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

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朝6時、雪が降っていた。

仕事をしている間は外を見ることもなく、せっせか働いている。

そうして、気付かない間に、空は空で、せっせか仕事をしていたのだろう。

 

この白く冷たい小さな子どもたちは、次の春が来るまで、度々、下界に遊びにくることになるだろう。

空を見上げると、おでこに一つ、舞い降りて、挨拶をしてきた。

これから迷惑をかけられる身としては、苦笑いしてしまうが、やはり可愛いので、のんびりしな、と呟く。

 

自動車にもうっすらと雪が積もっていた。

ワイパーを動かして、半円の形が2つ重なるように、雪を切り取る。

視界良好と、そのまま、走り出した。

自動車の上に乗っていた雪たちは、突然の向かい風に煽られて、海に沸き立つ泡のように、皆、飛んでいった。

 

こうした何でもない日常でも、誰かが何かをしている。

ヒンディー語の諺に「ジャングルの中で踊るクジャクのダンス、誰が見た?」というのがある。

「目撃者がいなくても価値があるのか?」、「踊るクジャクが評価されるためには、公衆の面前で踊らなければならないのか?」と言った意味合いがある。

哲学めいたこの諺は、人間主体の考え方だろう。

また、第三者の存在を強く意識しているからこその発想だ。

 

しかし、クジャクがダンスを踊るのは、誰かに見せるためではなく、ましてや人間のためではなく、ダンスを踊るクジャク自身が踊りたいから踊っているだけだ。

誰かの評価や、誰かの決めた価値ではなく、ただ、そうしたいから、という気持ち一つで踊っている。

 

この諺を言い換えるならば、「はてなブログで書く私の詰まらない記事、誰が読む?」となる。

または、「山奥の森林の葉に積もる雪の結晶、誰が知る?」となる。

 

銘々、好き勝手に、世界は動いている。

私は詰まらない記事を書いている、山奥には雪が降っている、ジャングルではクジャクがダンスを踊っている。

それで良い、それで世は事も無し。

 

自動車から降りると、うっすら積もっていたあの雪たちは何処にも居ない。

私は何処かに言ったのを見ていないが、きっと、雪の子たちは広い世界を楽しんでいるだろう。

11月19日、冬が来る。


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(参考本:「誰も知らない世界のことわざ」)

 

投稿します。

184

信号機が青から黄、黄から赤にさっさかと変わり、私に止まるよう指示してきた。

自動車のブレーキをゆっくりと踏み、なるべく静かに、停止線の前まで進めて、止める。

アイドリングで地球環境を破壊しながら、信号機の「進め」の指示を待つ。

待っている間、歩行者がいないか、右左折の自動車はないか、目を配っていると、遠くにある山の様子が変わっていることに気付く。

山の頂上付近が、白くなっているのだ。

すでに日本アルプスの山脈には、下々の人間にも確認できるくらいに、雪が積もっているのだ。

 

休日の午前中は、まず、スタッドレスタイヤに付け替えることから始めた。

しかし、私は自分で付け替えるのは億劫なのと、次いでに諸々の点検も兼ねて、毎年、近場のガソリンスタンドでお願いしている。

しかし、雪が明日にも降るかもしれない、と慌てふためいたのは、私だけではなかったようだ。

近場のガソリンスタンドにいた、50歳くらいの腰の低い男性スタッフにタイヤ交換を依頼したが、「今日明日と予約で一杯」と申し訳なさそうに断られた。

仕方がないから、少し足を伸ばして、別のガソリンスタンドに依頼した。

そのガソリンスタンドでも、やはり、混み合っていたが、幸い、正午にはできるとの返事を頂いたので、タイヤ交換をお願いした。

 

借家からタイヤ交換をお願いしたガソリンスタンドまで、歩いて20分程度なので、一度、帰宅することにした。

帰宅後、時間を持て余す。

持て余したうやむやの勢いで、「カクヨム」にはてなブログに上げた記事を載せてみた。

載せた記事は、以下3つ。

uenokoeda.hatenablog.com

 

uenokoeda.hatenablog.com

 

uenokoeda.hatenablog.com

 

下2つの記事は、読者の1人に、投稿した方が良いと言われて、何となく選出。

上1つの記事は、反響があったように見受けられたので、選出。

カテゴリー「素人が小説家気取り」に投稿した小説は…様子を見て。

 

持て余し次いでに、2作目のプロットを書いている。

常々、「小説が読んでみたい」とは言われていた

私、上の小枝の怠け者をモデル(?)にした主人公の私小説だ。

いや、私が主人公など、詰まらないことこの上ないだろうが、提案されたから、それで、仕方なく…

と、他人の性にする卑怯者で済みません。

 

いやいや、しかし、私が主人公で、物語などできるのか?と書き出してみる。

起承転結の最初の出だしは…こうこうこうで…

キャラクターは…主人公と、あれとそれと…

テーマは…青春もの?で良いか、とりあえず…

…はれ?するりと決まったぞや?

分からないものだ、これで何となく、書いてはいける。

 

足りない知識は、Google先生にお尋ねして。

と考えている間に、電話が一本。

スタッドレスタイヤの付け替えが済んだ、との連絡だ。

 

持て余した時間が、有意義になった、雰囲気を醸し出す。

さて、今日の午後は…どうしよう?

また、持て余している。

19時から、安曇野のイベントに参加するつもりではいるが、それまで、どうしていようか…

取りあえず、この前買った本でも読もうかな?

イベントは、途中参加でも良いから、多少、遅れても良いだろう。

 

持て余すからこそ、休日は映える。

ガソリンスタンドに向かう道すがら、遠く山頂から雪の声が聞こえた気がした。

 

投稿します。

友達のランク付けは、とても良いことだ。

友達を取っ掛かりに考えた過去。

 

早めに仕事が終わって、サンドイッチ片手に寛ぐ。

どかっ、と椅子に座り、パソコンを立ち上げる。

ふと、一昔はFacebookのノート機能にあれこれと書き連ねていたことが頭に過る。

当ブログの最初期、記事を書くに当たり、粗方、ノートに書いていた内容をコピー&ペーストして、改めて記事として投稿していた。

あの頃は、一人、閉ざし切った部屋の片隅で、悶々としていたのが、懐かしく感じる。

 

未だ、コピー&ペーストしていない内容があったかもしれない。

久方ぶりにノートを開き、ざっと目を通すと、幾つか投稿していない内容があった。

折角だから、コピー&ペーストすることにする。

手直しはするが、書かれている内容の大筋が変わらないようにはしたい。

 

さて、何れにしようか、と考え。

友達論にしよう、と決める。

私個人の主観がかなりの割合を占めているが、その中でもライトな「友達にランク付けはいけないことなのか?」を投稿する。

アンダーバーより、内容。

 

__________

 

ランク付けはいけないことなのか?
 
 
私がFacebookで友達について考えていることをコメントしたところ、「友達をランク付けしている!」と憤慨された方がいた。
 
何故、友達をランク付けすること(「ランク付けしている」と捉えられた文面)に憤慨されたのか?
ランク付けをする人とは、居丈高で高圧的なイメージだろうか?
言葉にすると…
 
 
 
「お前を俺の友達にしてやろう」
 
 
 
確かに、上から目線で嫌な奴だ。
 
では、ランク付けはいけないことなのか?
あえて、言い切る。
 
友達のランク付けは、とても良いことだ。
 
罵詈雑言のバッシングの嵐に晒されるのは、重々承知した上での結論だ。
 
でも考えてみて欲しい。
例えば、学校で同じクラスの人たち、40人の定員が普通だろうか?
その40人全員が、全員「友達」と呼ぶ程の仲なのか?
いいえ、クラスメイトの中でもグループに別れてはいなかったか。
それは、「趣味が合う」、「話が合う」、という何処か自分にとって居心地が良い人たちと固まれば、畢竟、数グループになる。
逆を言えば、クラスの中で、「趣味が合わない」、「話が合わない」人も、当然居る。
 
クラスの中で、合う、合わないで友達を選んでいる事実。
「選んでいる」ということは、即ち「ランク付けをしている」ということ。
 
細かく言えば、そのグルーブの中でも仲が良い人、普通の人と分けてはいないか?
グルーブ内でさえ「ランク付け」をしている。
 
別の話をしよう。
吉田兼好の「徒然草」に以下の文章がある。
 
友達にするにふさわしくない者は、七種類ある。
一つ目は、身分が高く住む世界が違う人。
二つ目は、青二才。
三つ目は、病気をせず丈夫な人。
四つ目は、飲んだくれ。
五つ目は、血の気が多く戦闘的な人。
六つ目は、嘘つき。
七つ目は、欲張り。
良い友達には、三種類ある。
まずは、物をくれる友達。
次は、ドクター。
最後に、賢い友達。
 

 (参考:http://www.tsurezuregusa.com/index....

 
友達には悪い友達と良い友達がある、と吉田兼好は言っている。
ここでも「良い悪い」、つまり「ランク付け」をしているのが分かる。
吉田兼好は知識人だ。
その吉田兼好が、それなりに深く考察した上で、上記の発言をしたのではないだろうか?
 
私個人の見解としては、「くらべること」は良いことだ。
「くらべる」とは、より良くしようとすること。
友達で言えば、自分にとって居心地が良い状態が好ましい訳だ。
相手を選ぶことは、「自身の居心地」をより良くする為に、自然とすることだ。
 
また、これらの行為は、相手にも良い作用がある。
自分にとって、「居心地が悪い相手」とは、相手にとっても「居心地が悪い相手」ではないだろうか。
お互いに住み分けをすることで、より良くなり、居心地の良い環境が出来るのだ。
 
さて、最初に書いた言葉。
 
 
 
「お前を俺の友達にしてやろう」
 
 
 
確かに嫌な奴だ。
しかし、それを面白いと感じる人もいるかもしれない。
面白いと感じた人が、その嫌な言い方に対して、角度鋭い切り返しをして。
それが丁々発止の掛け合いになり、居心地の良い関係になる、かもしれない。
例えば、その嫌な人に、こう切り返したら、どうだろうか?
 
 
 
「『友達にしてやろう』だぁ?『あなた様のような高貴で素晴らしい方に、大変恐縮なのですが、もし、あなた様がお嫌でなければ、どうかこの汚らしい豚を友達に、して頂けないでしょうか?!お願いします!ブヒィィ!!』だろうがぁぁあ!ボケナスコラぁぁあっ!!」
 
 
 
と言って顔面飛び膝蹴りをかませば、きっと仲良くなれるだろう。
なれる、と信じている。
なれる可能性を、信じている。
関係悪化が目に見えているのに、そっと目を背ける、弱い私。
 
ともあれ、無意識的に、意識的に、あの人やこの人をランク付けしているのは、自然なことだ。
 
__________
 
この友達論を書いたのが、2015年12月。
2年か…倉庫から蓄音機が出てきたような、古ぼけた記憶の残骸。
何れにしても、根本は同じ、弱いままの私。
 
今でも、「くらべる」ことが最も正しい行いである点は、信じている。
より良い世界、より良い関係、より良い生き方。
模索する上で、「くらべる」ことは、必要なことだと、つくづく感じる。
 
この古ぼけた記憶の残骸が、何時か朽ちてしまうのを、私は見届けることがあるだろうか?
まだ幾つかある記事を見据えながら、サンドイッチを一口かじる。

183

七転八倒、四苦八苦。

出がらし出尽くしでんでんでん。

でもでも書かねばうんぬんかんぬん。

でもでも書けないしくしくめそめそ。

 

本を読まないツケが回ったか。

ニュースを見ないツケが回ったか。

私の中に何もない。

 

困ったくまった頭ふりふり。

とりあえず、投稿。

 

投稿します。