友達を取っ掛かりに考えた過去。
早めに仕事が終わって、サンドイッチ片手に寛ぐ。
どかっ、と椅子に座り、パソコンを立ち上げる。
ふと、一昔はFacebookのノート機能にあれこれと書き連ねていたことが頭に過る。
当ブログの最初期、記事を書くに当たり、粗方、ノートに書いていた内容をコピー&ペーストして、改めて記事として投稿していた。
あの頃は、一人、閉ざし切った部屋の片隅で、悶々としていたのが、懐かしく感じる。
未だ、コピー&ペーストしていない内容があったかもしれない。
久方ぶりにノートを開き、ざっと目を通すと、幾つか投稿していない内容があった。
折角だから、コピー&ペーストすることにする。
手直しはするが、書かれている内容の大筋が変わらないようにはしたい。
さて、何れにしようか、と考え。
友達論にしよう、と決める。
私個人の主観がかなりの割合を占めているが、その中でもライトな「友達にランク付けはいけないことなのか?」を投稿する。
アンダーバーより、内容。
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ランク付けはいけないことなのか?
私がFacebookで友達について考えていることをコメントしたところ、「友達をランク付けしている!」と憤慨された方がいた。
何故、友達をランク付けすること(「ランク付けしている」と捉えられた文面)に憤慨されたのか?
ランク付けをする人とは、居丈高で高圧的なイメージだろうか?
言葉にすると…
「お前を俺の友達にしてやろう」
確かに、上から目線で嫌な奴だ。
では、ランク付けはいけないことなのか?
あえて、言い切る。
友達のランク付けは、とても良いことだ。
罵詈雑言のバッシングの嵐に晒されるのは、重々承知した上での結論だ。
でも考えてみて欲しい。
例えば、学校で同じクラスの人たち、40人の定員が普通だろうか?
その40人全員が、全員「友達」と呼ぶ程の仲なのか?
いいえ、クラスメイトの中でもグループに別れてはいなかったか。
それは、「趣味が合う」、「話が合う」、という何処か自分にとって居心地が良い人たちと固まれば、畢竟、数グループになる。
逆を言えば、クラスの中で、「趣味が合わない」、「話が合わない」人も、当然居る。
クラスの中で、合う、合わないで友達を選んでいる事実。
「選んでいる」ということは、即ち「ランク付けをしている」ということ。
細かく言えば、そのグルーブの中でも仲が良い人、普通の人と分けてはいないか?
グルーブ内でさえ「ランク付け」をしている。
別の話をしよう。
友達にするにふさわしくない者は、七種類ある。一つ目は、身分が高く住む世界が違う人。二つ目は、青二才。三つ目は、病気をせず丈夫な人。四つ目は、飲んだくれ。五つ目は、血の気が多く戦闘的な人。六つ目は、嘘つき。七つ目は、欲張り。良い友達には、三種類ある。まずは、物をくれる友達。次は、ドクター。最後に、賢い友達。
友達には悪い友達と良い友達がある、と吉田兼好は言っている。
ここでも「良い悪い」、つまり「ランク付け」をしているのが分かる。
吉田兼好は知識人だ。
その吉田兼好が、それなりに深く考察した上で、上記の発言をしたのではないだろうか?
私個人の見解としては、「くらべること」は良いことだ。
「くらべる」とは、より良くしようとすること。
友達で言えば、自分にとって居心地が良い状態が好ましい訳だ。
相手を選ぶことは、「自身の居心地」をより良くする為に、自然とすることだ。
また、これらの行為は、相手にも良い作用がある。
自分にとって、「居心地が悪い相手」とは、相手にとっても「居心地が悪い相手」ではないだろうか。
お互いに住み分けをすることで、より良くなり、居心地の良い環境が出来るのだ。
さて、最初に書いた言葉。
「お前を俺の友達にしてやろう」
確かに嫌な奴だ。
しかし、それを面白いと感じる人もいるかもしれない。
面白いと感じた人が、その嫌な言い方に対して、角度鋭い切り返しをして。
それが丁々発止の掛け合いになり、居心地の良い関係になる、かもしれない。
例えば、その嫌な人に、こう切り返したら、どうだろうか?
「『友達にしてやろう』だぁ?『あなた様のような高貴で素晴らしい方に、大変恐縮なのですが、もし、あなた様がお嫌でなければ、どうかこの汚らしい豚を友達に、して頂けないでしょうか?!お願いします!ブヒィィ!!』だろうがぁぁあ!ボケナスコラぁぁあっ!!」
と言って顔面飛び膝蹴りをかませば、きっと仲良くなれるだろう。
なれる、と信じている。
なれる可能性を、信じている。
関係悪化が目に見えているのに、そっと目を背ける、弱い私。
ともあれ、無意識的に、意識的に、あの人やこの人をランク付けしているのは、自然なことだ。
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この友達論を書いたのが、2015年12月。
2年か…倉庫から蓄音機が出てきたような、古ぼけた記憶の残骸。
何れにしても、根本は同じ、弱いままの私。
今でも、「くらべる」ことが最も正しい行いである点は、信じている。
より良い世界、より良い関係、より良い生き方。
模索する上で、「くらべる」ことは、必要なことだと、つくづく感じる。
この古ぼけた記憶の残骸が、何時か朽ちてしまうのを、私は見届けることがあるだろうか?
まだ幾つかある記事を見据えながら、サンドイッチを一口かじる。