電気ストーブを取っ掛かりに考えます。
冬の時期に灯油を熱エネルギーに変換して冷えた私のを暖めてくれる電気ストーブ。
寒がりの私には必須アイテムです。
秋が深まって来て、半袖と長袖を行ったり来たりするこの頃です。
電気ストーブの上にやかんがシュシュと音が鳴るのは…それはもう冬か。
乾燥するとやかんに水を入れて、部屋を加湿させますよね。
それで、熱くなったやかんをうっかり畳の上に置いて畳を焦がす、なんてありますよね。
あ、私だけか。いや、何となく大丈夫かなって…いごきをつけます。
電気ストーブの下に押して、チャッカマン的なのでニュッと出て、火を付ける訳です。
あのニュッと出る所が壊れていると、直接付けますよね。こう、マッチで擦って、遠赤外線ヒーターを持ち上げて。
そうそう、マッチがあるとマッチを擦ってそれをじっと見て楽しんだりしますよね。たまに傾けて持っている木の部分をギリギリまで炭化させたり!
あ、私だけか。いや、火遊びって楽しくないですか?…やんでませんよ?
電気ストーブの思い出で言えば、高校時代は朝一番で灯油を入れてました。
自転車を濃いで、始業の1時間前には教室に入るんですけど、全然寒いので、灯油保管庫でクラス分の灯油を取りに行って、入れたら着火。
その後は放課後まで寝て過ごす訳です。途中、昼食を挟んで。
あ、私だけか。いや、勉学する気が起きなくて…もうしわけありません。
うん、開き直ろう。
あえて、言い切る。
孤独を愛せれば、大抵のことは楽しめる。
ふ、何かぼっちが言ってますよ?笑う所ですよ?
ま、開き直りますけどね。
例えば、私にとって「友達」って言葉は希少で畏怖するものなんですよね。
何せ、私はぼっちですから。
学生時代からの付き合いのある人間なんて片手で数えるくらいですし。
その片手で数える人たちとの遊ぶ回数は1年に1回あるかないか。
基本、一人で行動。休日も一人。
そも、私と長く付き合ってくれる人たちを「友達」と定義するのさえ恐れ多くて…
長い付き合いの人たちはそれぞれ考察して別の言葉に置き換えて定義しています。
Facebookでは私の「友達論」を打ち上げてますけど、まあ、共感されない(爆笑)
ま、これ以上もこれ以下もなく、ただ事実として、私はぼっちです。
故に、ぼっちで楽しむ方法を自然と身に付きました。
気持ちの赴くままに。何かのアクシデントをスパイスに。
嫌なことは嫌なことで楽しみ。時に逃げ。
好きなことは好きなことで楽しみ。偶に諦め。
そうして三十路手前まで楽しみ尽くしてきました。
嫌なことを嫌なことで楽しみ、が解らない?でしょうね!
えっと、例を出しましょか?
私は私が嫌いですけど、私は私が嫌いな私が好きだったりもします。
とか嫌いな私が好きとか言う脳みその逝かれ具合が嫌いだったりするんですけど。
まあ、いたちごっこですね。このいたちごっこをし始めると脳が痛み始めます。
もう、ズッキンズッキンですね。そうすると「おおお、考え過ぎて死にそうだ!やべえ、楽しい!」になります。
まあ、ぼっちを拗らせているだけなんですけどね。
人との繋がりを大切にする人にとっては意味不明は人種でしょうね。
ただ、人との繋がりの中で誰とも繋がっていないと考えている孤独な人もいる訳です。
孤独とは「自分の存在が認められない」ことだと考えます。
人との繋がりで「自分の存在が認められている」人はそれはそれで幸せですし、健全な社会でしょう。
しかし、「自分の存在を認められない」人は人との繋がりが却って気付いてしまうものです。
私は自身が無能なので社会的に「自分の存在を認められない」んですけど。
私は空気も読めないので遊ぶ人たちの中で「自分の存在を認めてられない」でしょうけど。
私はそれで良いと。「私の存在を認められない」ことに存在意義を見出してます。
ああ、死にたいなと考える私が、それでもそう考えるのは私が存在するからで。
私が存在することに何かしらの意図はきっとないでしょうけど。
私が存在の意味の無さは、それはそれでいいや、と諦めると楽しくなります。
何故なら…私の存在の無さが周りの存在の意味があることに気付けるから、かなー?多分。
まあ、孤独を愛せば解るかもしれませんよ?
あ、愛する人たちが居ればそれはそれでオッケーです。
むしろ、愛する人たちのいる人生の方が豊かで尊いです!
うん、相も変わらず何が言いたいか解らないな!
良し、電気ストーブを出そう(唐突)