ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

私の34年間を省略して、1万文字の記憶に集約してみた。

はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」

 

私の過去を振り返って。

 

過去の私の影を探して。

 

 

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目次

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1、はじめに。

 

1-1、2021年の夏の私から。

 

夏の朝、二階に隅に置きっぱなしにしていた羽毛掛け布団を運んだ。

二階は母と父のスペースになっていて、普段は滅多に足を入れない。

少し急な階段をえっちらおっちらと昇り、ベランダの前に放り投げた。

 

クーラーが切られた部屋に開け放たれた窓から風が吹き込んだ。

涼しい空気は私の肌をそっと撫でて通り過ぎた。

ふと、竹細工で作られた棚に収められたアルバムが目に入った。

 

私には2つ上に姉がいて、4つ下に妹がいる。

2人とも県外に出ていて、1年に1度会うかどうか。

子どもの頃からの写真が3人分、ぎっちりと埋まっていた。

 

何となく、自分の子どもの頃はどういう顔だったか、気になった。

1冊のアルバムを手に取ってみようとして、止めた。

止めた理由も特にない、何となく、気が引けたのだ。

 

生まれてから今まで、私は私として生きてきた。

私の人生を34年を越えて過ごした。

赤ん坊、幼少、子ども、青年と経て、確実に肉体は歳を取った。

 

しかし、私の内面は子どもの頃から変わっていない気がする。

万事他人事で、間が抜けていて、楽観的なエゴイストだ。

三つ子の魂百まで、私の精神が滅ぶのは死ぬときだろう。

 

ただ、子どもの頃から変わった部分もある。

自分嫌いのナルシスト、今を楽しむ人生哲学は後天の付与だ。

子どもの私が今の私が見たら、どう見えるだろうか?

 

窓をしっかりと閉めて、ととと、階段を降りた。

アルバムを開くのは、母に了解を取ってからにしよう。

老後の楽しみ、と言っていた20年前を思い出す。

 

1-2、1万文字を書いてみたくなって。

 

部屋に戻って、パソコンを立ち上げた。

しばらく文字を打っては消して、打っては消してを繰り返した。

砂浜に書いた何かの言葉は波に浚われて海に還るように、繰り返した。

 

そう言えば、最近、長文を書いてないな、と考えた。

別に長文を必ず書く必要などありはしない。

当ブログは1文字でも良いのだ。

 

逆説すれば、1万文字も気まぐれに書いても良い。

当ブログは何を書いても良いのだから、適当に何かでっち上げて書いてしまえば良い。

と、簡単に書いているが、「適当にでっち上げて書く」は難しい。

 

きちんと書きたいことでも、3800文字と1万文字はない。

以前に1万文字を書いたときは、ある程度の目標や指針がないと書けなかった。

確か、最後の最後は蛇足と称して強引に引き延ばした記憶がある。

 

1万文字も何を書けば良いのか私には分からない。

しかし、書いてみようとするのは良いかもしれない。

はて、何を書こうか、思案する。

 

遠くでドバトが、でぅーでぅーとぅとぅー、鳴いていた。

二階のアルバムがスッと頭に浮かんだ。

私のことでも振り返ってみようか。

 

歳を取った私は、34歳であり、これからも歳を取る。

今、ここで振り返ってみても良いのかもしれない。

しかし、何のために振り返れば良いだろうか?

 

過去の私の数々を一つ一つ比較してみるのはどうだろうか?

私は、「私」の自意識を追求する者である。

そう自分を定義して、今の私がいる。

 

振り返る行為は過去の私の行動の数々を思い出し、それらの変遷を辿れば、「私」の自意識の新しい見方ができるかもしれない。

適当にでっち上げて書くにも丁度良い案件のような気がする。

ただただ私の過去を思い出し、私の過去をくらべていけば良いのだから。

 

大体の目安を決めて書くか。

真っ先に思い付いたのが「悲しい」にまつわる思い出だった。

過去の「悲しい」でくらべるなら、感情で整理した方が良いだろうか?

 

なら、喜怒哀楽で一先ず、書いていけば良いか。

それで、過去のエピソードを書いて、くらべてみる。

結論は出さなくても良いだろう、変遷を辿るのが目的のようなものだから。

 

喜怒哀楽で4つだとして、1つ1000文字なら、4000文字か。

今のこの長ったらしい前置きを含めれば、6000文字は堅いか?

そうすると、残り4000文字、総括的なことでも書けば良いのだろうか?

 

いや、考えても仕方ない、無駄に文字を稼いでいるだけだ。

大体の指針が決まったのだ、後は書いていけばどうにでもなる。

すわ、書いていこうか。

 

手段と目的をごっちゃにしながら、1万文字をかけて過去を振り返る。

 

2、喜、嬉しかった私。


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2-1、嬉しいとは、どういうことだろうか?

 

手始めに喜びの記憶を辿ってみようとした。

歩いて脳を活性化しながら思い出す。

数分後、はたと気付く、「嬉しい」と記憶している出来事が思い浮かばない。

 

私が幸せな人間である。

小さな出来事でも幸せを感じられる。

その所為か、明確に「嬉しい」と紐付けられる記憶が出てこない。

 

そも、「嬉しい」とはどういう感情なのだろうか?

言葉で私は「嬉しい」と口にするが、実際、私は表面をなぞっているだけではなかろうか。

心から「嬉しい」と感じた出来事がない、私は「嬉しい」が分からない。

 

グーグル先生に「嬉しい」とは何か尋ねてみた。

グーグル先生曰く、「(思い通りになって)晴れ晴れとした、またははずむような、よい気持だ」と。

思い通りになった、晴れ晴れとした、良い気持ち、成功体験のようなものだろうか?

 

初っ端から躓いてしまった。

まさか「嬉しい」の感情が分からないとは考えなかった。

私という人間は低体温な感情なのかもしれない。

 

人生を変えるほどの「嬉しい」を未だ経験していない。

鮮烈に覚えているような「嬉しい」がない。

幾つか思い出しても、「喜びの記憶なのか?」と疑問符が浮かんでしまう。

 

そう言えば、私は冷めた物言いをしていた気がする。

記憶は小学校6年生の運動会の出来事だ。

 

2-2、運動会の組体操。

 

小学校最後の組体操のその前日に雨が降っていて、グランドはかなりぬかるんでいた。

泥の上でサボテンやらピラミッドやら、色々な組み技を披露していた。

この日のために皆、練習を重ねているので、特段、大きな失敗もなく進行していった。

 

私はただ与えられた役割をこなしていった。

泥の上でうつ伏せに待機したり、走り回ったりした。

一生懸命とは何か違う、練習した動きをトレースし続けた。

 

運動会終了直後、母と会話した。

母は「泥で汚れるのも厭わず、堂々とした演技に感動した」と伝えてくれた。

私は「泥が汚れるのが昨日が雨だったからで、演技は普通だよ?別に感動するようなものでもないよ」と答えた。

 

母がトーンダウンしたのは覚えている。

しかし、私としては何が感動したのかさっぱり分からなかった。

雨が降らなくても私は普通に練習通りの動きをしたし、それも感動するに値するものではないと考えただろう。

 

子どもの頃の私はいつも他人事のように物事を捉えていた。

それはそれ、これはこれと区別をしっかりとしていたのではないだろうか?

今も私は白黒ハッキリさせたいので、低体温の私が根本にあるのかもしれない。

 

この低体温の私は、感情が起き難い、感じ難いのかもしれない。

怒鳴ったのは人生で1回だけだし、悲しいを感じたのは父方の祖母が亡くなってから少し経ってからだ。

悟ったように見えるのは、そうした基本的な感情の起伏が平坦に近いからではないだろうか?

 

2-3、O氏との活動。

 

「喜び」の感情が希薄な私であるが、「喜び」の言葉を使った明確な記憶が1つ思い出した。

デザインの専門学校後期から始まった、O氏との活動だ。

専門学校の卒業発表会でO氏の「漢」についてディスカッションした。

 

O氏との問答を通して、自分の中にある思想を言語化して定義して解明していき、お互いに納得できる答えに辿り着いた。

その時の体験を後に「解明する喜び」として、その原体験を追い求めて、卒業後も活動を継続した。

直ぐに思い出さなかったのは、O氏との活動の最終は決定的な亀裂を以て解散してしまったため、苦い思い出の方が勝っていたからではなかろうか?

 

ただ、今の私が思索思案を好むのは「解明する喜び」という原体験がある。

後天の人格形成にこの時の体験はかなり大きい。

今のネガティブに全力な私もこのときに形成している。

 

「私」の自意識の追求は、この体験から地続きではある。

しかし、変容し続けて、原体験である「解明する喜び」と自意識の追求は最早別の感情になっている。

もしかしたら、「喜び」や「嬉しい」とは一過性のもので、永続するものではないのかもしれない。

 

振り返ったとき、あの言葉を今の私が追体験できないのは、負い目の感情があるからだろうか?

確かに「解明する喜び」と言っていたが、活動中も何度も繰り返し、手垢で真っ黒になって、仕舞いには「解明する喜び」が迷子になっていた。

あの一瞬、あの原体験が、私の1つの青春だったのかもしれない。

 

3、怒、腹を立ててる私。


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3-1、父が祖母の葬式に言及してきた時。

 

私が人生で怒鳴ったのは、1度だけだ。

父方の祖母が亡くなってからしばらく後に、父が当時の葬式での私の格好に対していちゃもんをつけて来た時だ。

あの時が最初で、多分、あの時が最後になるだろう。

 

葬式の最中であれば、または直後であれば、私は反省もできたかもしれない。

しかし、すっかり落ち着いた頃に、如何にも尤もらしい風に説教をしてきたのだ。

私は許せないのは、「居なくなって悲しい」という言葉より先に「お前の振る舞いが良くなかった」と祖母を私をマウンティングするための道具にしたことだ。

 

私は今でも悲しい、私の奥底にずっとある。

私は祖母を愛している。

その私に対して、祖母を道具にしてきたのが、腸煮えくり返ったのだ。

 

私にマウンティングする前に、祖母が居なくなって悲しいなり、寂しいなり示してくれればまた違ったのかもしれない。

しかし、そうした言葉を言う前に、私の振る舞いを非難してきたのだ。

私には形式に囚われて、祖母を蔑ろにしているように感じた。

 

これで父が葬式できちんとした振る舞いをしていたなら、父はしっかりとしていた、と考えて怒鳴るまではしなかったかもしれない。

しかし、服装で私が色が良くなかった点を言い始めたが、父は自分が茶色の、葬式に相応しくない格好をしていた。

私をやり込めたい、マウンティングしたいがために祖母を道具にする父に、私はぶち切れた。

 

母が「(私が怒鳴ったのを)初めて見た」と言っているくらい、私は怒らない。

父もまさか私が怒鳴るとは思わなかったようで、動揺しながら一度自室に撤退していった。

父が戻ってきて不貞腐りながら謝ってきたときは、またぶち切れてしまったが、その時は母が「いい加減にしろ!」と仲裁したので、私が自室に引いた。

 

今でも思い出すと、カーッとなる。

当時は感情最優先で理屈は今考えている。

このことは生涯許さないと決めている。

 

3-1のことの詳細を書いたのが、下記リンク記事だ。

 

www.negativehoukou.jp

 

自分でもうろ覚えになっている部分があった。

記憶だから忘れるものだろうか?

しかし、私が父を許さないと決めた出来事には違いない。

 

覚え続けておくべきは、父が形式に拘って祖母を蔑ろにしたと感じたという点だろう。

後で自分でも読み直しておく。

 

3-2、怒りに振り回されても仕方ない。

 

怒りについて書いた記事は他にはこれがある。

 

www.negativehoukou.jp

 

 

「嬉しい」でもそうだが、「腹を立てる」に関してもそれほどない。

どす黒い感情があった出来事は仕事中にあったが、直後にそう感じた私自身に可笑しくて楽しくなった。

怒りも私には縁が薄い。

 

7秒で怒りのピークが過ぎるから、7秒は待てと聞く。

普段は受け流すなり、俯瞰するなりしているから、7秒はあっという間に過ぎる。

そういう意味でも私は怒りを維持できない。

 

こう考えると、私が怒鳴ったのは燃料を投下し続けた父の無神経さだろうか。

7秒のピークを過ぎる前に次々に私の神経を逆撫でてきた。

私を怒らすとは、大した人間だ。

 

ただ、普段の私は、そうした怒りは持ち込まないように意識している。

感じたとしても自分の中で消化するように努めているし、持ち続けないようにしている。

「怒りを呑み干せ」と1年前の私は書いているが、今でも私はそう考える。

 

4、悲、泣いている私。


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4-1、中学の私は都合良く泣いていた。

 

私の子どもの頃はよく泣いていた。

しかし、悲しいから泣いていた、というと、違う。

泣いた方が都合が良かったからで、本当に悲しかったかと言えば、そうでもなかったような気がする。

 

中学1年の初期、私はシャーペンの芯を折られて泣いた。

確か、仲良くなろう、と声をかけてくれたクラスメイトが私のシャーペンを手に取って、何かの弾みでシャーペンの芯をボキっと折れてしまったのだ。

わざと折った訳ではない、ちょっとした事故だ。

 

記憶が定かではないが、シャーペンの芯を折られて私は泣いた。

周りはドン引きしていたのではなかろうか。

しばらくして、私は何でシャーペンの芯を折られて泣いたのか、自分でもよく分かっていなかった。

 

その所為だろう、ぼっちでずっと過ごした。

仲良くしようとする気が全くなかったのも大きい。

煩わしかったのかもしれない、人との関わりが私にとって。

 

私が泣かなくなったのは、Fの存在が大きい。

中学時代はFに絡まれていた。

スイミングスクールで何となく仲良くしていたのだが、絡み方が執拗であった。

 

どうしてそうなったのだろうか。

その日もFに絡まれて、私は泣いていた。

Fはイライラしていたのだろうか、私の学生カバンに付いていたお守りを奪った。

 

そのお守りは祖母が私に寄越してくれた、交通安全だかのお守りだ。

Fはそのお守りの中身の取り出し、ご神体?である木をパキット折ったのだ。

その時、私は泣いてもどうにもならないことがある、というのが分かった。

 

神様というものを信じている訳ではなかったが、お守りの中身を取り出して割るような人間が目の前にいる。

神も仏もない、泣いた所で状況が変わらない。

そうした気付きをFは私にもたらした。

 

それ以降、都合良く泣く、というのは無くなった。

 

4-2、亡き祖母への愛慕。

 

私が本当に悲しい、と言えるのは、祖母が亡くなった時だろう。

私は身を以て「悲しい」の意味を知った。

私の愛する人と会えないのだ。

 

亡き祖母への想いは下記に認めている。

 

www.negativehoukou.jp

 

www.negativehoukou.jp

 

それでも「泣く」とまではいかなかった。

いや、「泣く」のを意図的にしなかった。

泣いてすっきりしたくなかったのだ。

 

上記記事「それでも、願わずにいられない。」で触れているが、2019年5月31日の長野市ネオンホールでのオープンマイクイベントで私の「悲しい」を打ち上げた。

オープンマイク、人前で私の心情を吐露するので、ある程度の体裁や練習もして臨んだ。

練習でも感情の昂りはあったが、昂る箇所だけ気にすれば良い、と高を括っていた。

 

結果は、感情のアンコントロール、操縦不能に陥ってしまった。

語り終わってステージを後にして、号泣した。 

翌日には空虚感を味わうほど、私の全部を出した。

 

www.negativehoukou.jp

 

今現在も、私は悲しい。

私は祖母に会いたい。

それは叶わぬ夢で、胸が苦しい。

 

4-3、「普通」になれないことへの絶望。

 

私が「泣いた」のは石川県で参加したオープンマイク、その帰り道だ。

私が普通に成れない、と諦めていたが、この一件で明確に相容れなさを感じて泣いた。

このときも、祖母への気持ちが過って、余計に辛かった。

 

www.negativehoukou.jp

 

このことを話すと「面白いね」と言われる。

客観的な視点だといちいち大騒ぎしているように見えるのだろうか?

しかし、私は大真面目に「他者と相容れない」と感じている。

 

いや、今は「友達」と言える間柄の人間ができたので、「相容れない」だとニュアンスが違うかもしれない。

「噛み合ない」の方が確からしい感触だろう。

私としては面白くも何でもない事実ではあるが、「面白い」と喜んでもらえたのなら、それはそれとして良しとしたい。

 

4-4、演劇を通して感じた、悲しみの表出。

 

不帰人となった祖母への情、石川県での帰りなどを経て、私は「悲しい」を理解したと考えていた。

2019年6月頃から私は演劇をやり始め、そのときに台詞が2番目に多い役を頂いた。

その役で、私は悲しみを表現するシーンがあった。

 

あの「悲しみ」をオープンマイクで出せたのだから、自信を持って稽古に臨んだ。

しかし、そのシーンで何故か悲しみが伝わらない。

結句、私の元来の戯けたキャラクターを活かすシーンに切り替わられた。

 

演出に「あなたがやりやすいようにした」と言われた時はショックだった。

私はあれだけ悲しいを理解しているのに、この役の悲しみを伝える、表現できないのだ。

私の演じる役の悲しみを私はなかったことにしてしまったのだ。

 

振り返れば、都合良く「泣く」をしていた子どもから、今は全く「泣く」ができなくなった。

感情の蓋がぶっ壊れた時期が2019年頃にあるが、それは私の奥深くになる感情が起因していて、何かを表現するに足りる理解とは違うのを最近分かった。

技術で泣けていた子ども時代、今は悲しくても表出するまでに至らない。

 

2021年7月、私は新しい役を頂いた。

その役にも悲しいがある。

その悲しいを私はどう表現していけば良いだろうか、自問自答していきたい。

 

私の悲しさは私の「悲しい」であって、誰かの「悲しい」ではない。

演劇を通して分かったのは、当たり前の事実だけだ。

 

さて、私は随分と悲しいで物を書いている。

私にとって悲しいは特別な意味合いがあるのも大きい。

これから何かを書く時には、私の「悲しい」で書けば良いのかもしれない。

面白い話になるかは、別として。

 

5、楽、自然体であろう私。


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5-1、何の変哲のない日々を思い出す。

 

楽の感情に起因する記憶、はて何かあるだろうか?

私は楽の感情を「自然体」と定義している。

つまり、力が抜けている状態、リラックスを差している。

 

しかし、自然体な記憶にすると、難問のように感じてきた。

エピソード記憶は「私」という自意識を栞にして記憶している、と昔の本を思い出す。

「私」の自意識が過去を記憶するのに、感情は一つの起点になるだろう。

 

感情の変化がない、平坦な状態だと、思い出すという作業が難しいのではなかろうか。

感情に常に振り回されて生きているならば、その谷間は記憶するに値するかもしれない。

しかし、私は平坦な感情が常なので、ある意味で毎日が谷の底なのだ。

 

これは見方を変える必要があるのか?

いや、自然体だけど、記憶していることでも良いのだ。

それは私にとって感情を揺り動かされた出来事ではないが、何故か記憶している事柄でも上げていけば良い。

 

つまり、何の変哲もない、私のとある日常を思い出せば、この章は埋まるだろう。

すわ、何か思い出してみようか。

 

5-2、ぬくぬくとした記憶。

 

小学生の頃、昼休みに私は中庭にあったマットの上で大の字で寝て日向ぼっこをしていた。

眠かった訳ではなく、ただ横になりたかった。

季節としては春か、モンシロチョウが飛んでいた。

 

寒がりだったので、燦々と降り注ぐ太陽の元、大の字で寝るのは気持ちが良かった。

多分、外で大の字で寝ているのは、私だけではなかっただろうか。

春の一時の過ごし方だ。

 

秋から冬は室内の窓の日差しでぬくぬくしていた。

カーテンに包まって、冷たいガラス窓から少し離れて、日向ぼっこだ。

カーテンの埃っぽい匂いが私は大好きだった。

 

冬と言えば、高校のストーブの灯油は私が入れていた。

ホームルームが始まる1時間前には教室に入った。

まだ誰も来ていない教室は寒く、まず暖を取りたい私は灯油室に行ってクラス毎に分けられたポリタンクを貰い、灯油をストーブのタンクにとくとくと入れていた。

 

私は誰に頼まれてもなく、また、誰も私に感謝をしていなかった。

そういうものだったからで、今思い出しても、そういうものだったなである。

しばらくしたら、私は自分の席に行って、一眠りするのだ。

 

5-3、驚かせたい記憶。

 

夏の盆祭りに参加するとき、穂高盆踊りを居間で踊って履修していた。

薄暗がりの中、ぶつぶつと独り言を呟きながら、、テーブルの周りをぐるぐる回った。

ある程度の完成になって、本番はきちんと踊った。

 

他の人たちはそれほど覚えていなかったので、先頭で踊って、と頼まれて意気揚々と踊った。

それが毎年のことになり、他の地区からも注目されるまでになった。

誰かが撮った動画がインターネットに上げられているのを見付けた時はしめしめと思ったものだ。

 

小学生の時に、ソーラン節を踊ったときも、誰よりも深く沈み込んで踊った。

そうしたら、先生に前に来て踊ってくれ、と頼まれた。

ああ、そうだ、みんなの前でソーラン節を踊ってみせたのだ。

 

誰かが喜んだり、驚いたりするのが気分が良かった。

高校生の時のプレゼン大会も思い出す。

プレゼン大会では多くの農業学校がそれぞれの研究していることを発表する大会があった。

 

私の役目はポインターであったが、それほど記憶していない。

それよりも覚えているのは、プレゼン大会の前に行われた交流会で炭酸飲料の一気飲みに私が一番に飲み込んだことだ。

プレゼン大会より、そっちの方が私が頑張ったし、周りからもちょっと驚かれていたように感じた。

 

専門学校時代では、ひらがなの各表音文字に対応する物を集めて「あいうえお表」を作る課題があった。

私も色々と集めて、ふと「いろはうた」に因みたいな、と考えた。

そこで校舎の一角を借りて、あいうえお表を貼り付けた後、マスターテープで矢印を作り、矢印を辿れば「いろはうた」になるよう仕掛けた。

 

これは自分で言うのも何だが、会心の出来であった。

写真でも撮って置けば良かったかもしれない。

課題を出した先生が良い感じのリアクションをしてくれたのが印象に残っている。

 

専門学校時代で言えば、卒業制作展に出品する作品で私は動画を撮影した。

動画は14分強と中々に長くなってしまった。

これだけ長いのを観てくれた方に何か感謝を伝えたい、と考えた私はパンツ一丁になって、裸一貫でお礼を言おう、と決めた。

 

2月、一番寒いと言われている時期に河原で服を脱ぎ捨てて撮影した。

服を脱ぐ前に周りに誰もいないか確認して、さっと脱いで、さっと撮った。

これを発表した時は、驚いてもらったので脱いだ甲斐があっただろう。

 

今も誰かの幸福が私の一番大きい要素になっている。

私の幸福はその後で、何なら幸福にならなくても良い。

後年、そういう人がいたな、と言われれば最高に最幸だ。

 

5-4、祖母との何でもない記憶。

 

祖母と二人で昼食を食べた。

その日は両親は出かけていて、姉も妹もいなかった。

二人で向かい合わせて食べていた。

 

その時に祖母の昔話を聞いた。

祖母の夫、祖父とはバス停で見かけたのが最初らしい。

バスから祖父の顔を見ていた、と言っていた。

 

結婚式では、住んでいた母屋の屋根に向かって下駄を投げて、嫁入り道具を持って花嫁行列をしたそうだ。

花嫁道具はとても大荷物になったと言っていた。

私は昔の風習に興味深く聞いていたような気がする。

 

父が生まれて、目を離した隙に電車の踏切で父が片足を無くす事故があった。

戦争があって、祖父が戦地に赴いている間は国鉄で働いたり、ミシンで靴下を作ったり、ゴルフ場で働いたりしていた。

祖父がガンが亡くなってからは女で一つで父を育てたらしい。

 

祖母はもう死ぬしかないと農薬を飲もうと考えたらしいが、祖母の弟がそれを止めたらしい。

それで、大きく育てて、近所に住んでいた友達の伝で、母と見合い話があって、結婚したらしい。

そうした話をぽつぽつとよく聞いていた。

 

祖母の昔話とは別に、私が記憶している言葉がある。

私が新聞を読みながらご飯を食べていた時だ。

祖母がそれを見て、顔をしかめて、こう言ったのだ。

 

「ちゃんと食べなくちゃいけない。生きるとは一杯のお碗だ」

私は「生きるとは一杯のお碗だ」という祖母の言葉にとても感銘した。

何でもない一言だが、何だかすごく含蓄があるような気がしたのだ。

 

祖母と二人で話した、他愛ないやり取りだ。

 

6、おわりに。

 

6-1、僅かな、確かな心の動き。

 

蒸し暑い深夜、クーラーの電源を入れる。

だらだらと流れる汗を袖で拭いて、パソコンの前に座る。

あれもこれもと思い出して、紐解いてみた。

 

私は感情の起伏が平坦で低音で希薄なのはこの振り返りで得た。

ただその中でも、思い出は思い出として記憶している。

様々な過去があって、今の私ができている。

 

34年の月日が流れているのだ。

1日の出来事を詳細に書いていけば、それだけで1万文字以上になるだろう。

それでも要約されたのが当記事となる。

 

私の34年間を省略して、1万文字の記憶に集約してみた。

 

ここに抜き出した記憶は、私の生き方、生き様に関係するだろうか。

鮮烈な感情の記憶は、私の心が動いた記憶だ。

私の心は動いたということは、私を突き動かすものがあったということだ。

 

考えるより動く私は、僅かに、確かに動いた感情によって今の私を形作っているのかもしれない。

アルバムは、後で母に尋ねてみよう。

1枚1枚見れば、何かまた思い出すかもしれない。

 

これからも僅かに、確かに感情が動いたその時、私の記憶に残るだろう。

それはどういう感情なのかは、先々の楽しみだ。

今を楽しむ、私はこの一瞬に私の熱を、情動を乗せている、のかもしれない。

 

一先ず、この辺で終わりにしておく。