着目を取っ掛かりに考えます。
3連休を一心不乱にダラダラと過ごした。
寝て起きて、漫画を読んで、寝て起きる生活。
ご飯食べて、寝るだけの生活がきっと理想。
50歳までには、2000万くらい貯金を貯めて、リタイヤしたい。
欠伸して噛み締める、幸せ。
そんなこんなでも、頭の中は空回りし続ける。
しばらくすると、ふとした瞬間に歯車が噛み合うのか、思考し始める。
所謂、「やる気になる」という現象か?
取りあえず、前回の思考を進めてみる。
前回、考察したのが思考の方向性について。
「興味」が有る無しに関わらず、「思考」はする。
何に「着目」しているかが、「思考」することに繋がる。
その「着目」とは何か?を以下のように定義した。
「着目」とは、「各個人の価値・必要性などが各個人にとって大きいことだとしていることに、選択的に反応したり、注目したりする意識の働きであり、元気をつけさせ、気付き、思い出させるように見る」ことを指す。
この定義に基づいて、思考のプロセスを私の思考になぞらえてみよう、が今回の思考だ。
上記の定義を分解すると以下のような流れになる。
1、各個人の価値・必要性などが各個人にとって大きいこと
2、選択的に反応したり、注目したりする
3、元気をつけさせ、気付き、思い出させるように見る
まず、1について。
前回でも触れたが、「など」とある通り、価値や必要性以外の要素がある。
各個人によって何を基準、項目にするかは変わるため、私の独断で「など」の中身を推定する。
以下、項目を羅列する。
「価値」、各個人が持っている大きいこと、大事なこと。
「楽観悲観」、それは楽観することか、悲観することか。
「善悪」、それは善いことか、悪いことか。
「好き嫌い」、それは好きか、嫌いか。
「正邪」、それは正しいことか、間違っていることか。
「美醜」、それは美しいことか、醜いことか。
「必要性」、それは必要なことか、不必要なことか。
「緊急性」、それは今すぐか、後なのか。
「優先順位」、様々な事柄をくらべること。
「状況」、様々な状況によって、優先順位は変化するか否か。
他にあれば、教えて頂ければ、付け加える。
上記の推定した項目を一まとめに「判断項目」と名称する。
では、この「判断項目」はどのようにして培われるのか?
「善悪」、「正邪」、「美醜」は、家庭や地域社会で学習したことが常識として身に付いていく。
その中で、「必要性」、「緊急性」、「状況」で「優先順位」を決めて行くのは、経験則、体験から「こうした方が良い」という判断が下させる。
様々な経験が後に各個人の「価値」となる。
しかし、経験のみではなく、持って生まれた感覚というものがある。
「価値」や「楽観悲観」は、環境だけでなく、遺伝子も加わる。
子どもがボロボロのシャツにすってんてんのパンツを頑なに履き続けるのは、学習か?経験か?
否、それが社会の目からという学習でも、経験でもなく、「これを着たい」というその子どもの「価値」であり、環境の要素だけで説明はできない。
持って生まれた、その個人の資質、感性であり、遺伝子が関係するのは明白だ。
何を「大事」にするかは、「遺伝子」と「環境」が要因になる。
何に「注目」するかは、何を「大事」にしているかであり、何を「大事」にしているかは、各個人の生まれ持った資質である「遺伝子」と各個人が育った「環境」が重要だ。
即ち、何を「大事」かを知りたければ、自分の資質の「遺伝子」の基である家族を知ることであり、どういう経験、学習をして育った「環境」を知ることが、自分の「価値」を知るのに適している。
外的要因から、内的要因を見つめ直すのは良くある手法だろう。
こうした手順を踏めば、「思考の方向性」の出発点が見え易くなるだろう。
私にとっての「判断項目」では、「内面の追求」が加味されるが、それは私の資質と経験から導かれたことなので、「内面の追求」は「価値」と置き換えても問題ない。
「意味のない数字」において、何をもっとも「大事」にするかは、このブログでの「環境」が大きいことだろう。
ブログの趣旨は、すでに私の「価値」によって方向性を定めているので、「意味のない数字」の「思考の方向性」を定めるのは、「環境」、この1年で何を経験、学習したかを精査すれば良い、はずだ。
斯くすれば、「思考の方向性」の出発点は定められる。
その精査については、後半にする。
また、プロセス2、プロセス3についても次回に回す。
今回はここまで。