ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

70

「意味のない数字」の投稿も当記事で70となる。

意味のない投稿を70回したことになる。

また、意味のない日々が70日あったということになる。

 

こうして振り返るとこの70日は本当に無意味だったなと感じる。

今日も何か書こうとして、放り出した文字の羅列を並べて、投稿する。

意味のない、私の人生の思い出にさえならない日々が、70日ある。

 

1年は365日、閏年は366日、その内、意味のある日々は一体何日あるのだろうか?

少し、今日は何かあるのかもしれないと、ぼうっと過ごしたが、結句、何もなかった。

ぼうっと過ごせることに幸せだな、とは感じるが、人生において何か意味があったとは到底考えられない。

 

これほど意味のない日々を過ごす、人生の大半は意味のないことになる。

首を吊れば、人生の継続は絶たれるが、そこに意味があるのだろうか?

意味のない人生、意味のないブログ、継続することの意味は自分で見つけるしかないのだろう。

 

振り返れば、意味のない人生だった。

然れど、意味のない人生で何がいけないのだろうか?

自意識の塊である私にとって重大な問題なような気がするし、取るに足らない些末な事柄のような気もする。

 

今日まで、馬鹿みたいに継続した。

こうした日々に、何時か意味が与えられる日は来るのだろうか?

思い出さえならない今日、また無意味な記事を書く。

 

投稿します。

自分嫌いのナルシスト-自己否定の完全証明-

ナルシストと言われたことを取っ掛かりに考えます。

 

不安を取っ掛かりに書いた記事は、一つ確からしい標榜になった。

求道する先に、太陽が地平線から覗かせているような、明日の希望がある。

これで忠言をして頂いた方たちに面目が立ち、一安心…とならないのが世の常だ。

 

不安についての記事を読んで頂いた方に、「自分大好きナルシストじゃないと書けない」と言われたのだ。

 

なるしすと…?

私はナルシスト、なのか?

 

何となしに、このブログで言っていることを振り返ってみた。

私は、「私」の追求する、求道者を掲げている。

そして、そのことに執着している。

それは、まるで鏡の前に2時間髪を弄るような執着だ。

…あれ?これ、ナルシストじゃね?

 

うわあ…自分で自分にドン引きするしかない。

何という筆舌し難い気持ち悪さ…

無能を自称しているのに、無自覚にナルシスト発揮とか、腐葉土に埋もれて微生物に分解された方が良い。

 

…しかし、無能である事実と、ネガティブ思考であることと、ナルシストが繋がらない。

自分大好きではなく、自分大嫌いな私である。

果たして、それはナルシストなのか?

ウィキペディアで調べてみた。

 

ナルシシズム - Wikipedia

 

ナルシシズム(ドイツ語: Narzissmus, ギリシャ語: ναρκισσισμός, 英語: Narcissism)あるいは自己愛とは、自己を愛し、自己を性的な対象とみなす状態を言う[1]。転じて「自己陶酔」「うぬぼれ」といった意味で使われることもある[1]。語源はギリシャ神話に登場する美少年ナルキッソスが水面に映る自らの姿に恋をしたというエピソードに由来している。ナルシシズムを呈する人をナルシシスト(英: narcissist)と言うが、日本においてはナルシスト(蘭: narcist)という言葉で浸透している。 

 

ナルキッソスの神話は知っている。

水辺に映る自分に恋して、毎日それを見に水辺に行き、遂に水辺に映る自分を手に入れようと飛び込み溺れて死んでしまう。

…私の「私」の追求に、ナルキッソスの行動に近しいと言うか、まんまナルシストな行為ではないか。

溺れてしまうかもしれないとも考える節がある。

 

そして、「自惚れ」で納得する。

確かに私は自分の無能さは他の追随を許さないと考えているし、ネガティブ方向に全力な部分は正しく自惚れている。

 

そうか、私はナルシストだったか…

より正確に言えば、「自分嫌いのナルシスト」、とでも自称すれば良いか?

ライトノベルのタイトルのような自称だな、「自分嫌いのナルシスト」というのは…

 

…今回のタイトルにしてみようか?

あえて、言い切る。

 

自分嫌いのナルシスト-自己否定の完全証明-

 

…自惚れてるな、しかも、売れなさそうだ…

自己愛の強い主人公が自分に拘り過ぎて、ヒロインのアプローチをガン無視するストーリー展開が目に見える…

…あれ?突き詰めれば、物語としては、面白いか??…妄想の種にしよう。

 

因みに下記リンクは、「ナルシスト」でヒットしたブログです。

 

www.narcisman.com

 

「自分の1番のファンでいたい」と書かれている記事。

ブログタイトルから、ひねくれているのかな?と考えてたが、純粋で素直で明るい記事であった…

ひねくれてたのは、私です。

何か、もう、ごめんなさい…

色々と知っていく過程を楽しんで欲しいと、勝手に願う次第です。

 

何はともあれ、これで良し。

 

『雨が降る夜』

詩を書きます。

久しぶりに詩を考えた。

即興で考えた割には出来が良い?

 

『雨が降る夜』

 

雨が降る

何故、雨が降るのか?

それは、鹿の喉を潤すため

 

雨が降る

何故、雨が降るのか?

それは、ツバメの雛の鳴き声を隠すため

 

雨が降る

何故、雨が降るのか?

それは、横断歩道を猫が渡るから

 

冷たい、冷たい、雨が降る

傘を忘れた私の髪をぺしゃんこにする

 

傘を忘れた私を、皆見ない振り

何故、皆見ない振りをするのか?

それは、熱い風呂に入るため

 

傘を忘れた私を、皆見ない振り

何故、皆見ない振りをするのか?

それは、家で寝てる娘の寝顔がみたいから

 

傘を忘れた、服が濡れた

それがどうした

この程度の雨で、私の愛を冷ますことはできやしない

数本の髪の毛など、くれてやる

 

雨が降る

何故、雨が降るのか?

それは、私が愛の人だから

「私」を規定する思考は、私を大事にするためだ。

不安を取っ掛かりに考えます。

f:id:uenokoeda:20170629092742j:image

 

エゴイストで偏執狂な私が、また懲りずに内面について書き連ねる。

「私」を連呼して、同じ問答を繰り返し、一歩進んで二歩下がること幾早々。

「私」に執着したために、内面深くにある、痛みを伴う何かを消耗している。

それでも止めずに、痛みがあるから、自らを規定できると信じて、こうして一つ記事を書く。

私にとって必要な、儀式にも似た作業だ。

 

さて、以前下記のような記事を書いた。

uenokoeda.hatenablog.com

 

この記事で、私は「私を大事にする」ということについて真剣に思考している。

しかし、「私を大事にしよう」と考えると不安がネズミ算式に募り、恐ろしくなって「私を大事にしよう」と考えるのを止めた。

あんなに情緒が不安定になるとは、考えもしなかった。

私が「私」を思考する上で、この問題は捨て置けない。

 

私は、「私」を大事にしようとすると不安になるのは何故だろう?

 

不安になるとはどういうことか?

今回は、下記リンク先記事を参考に 考えてみた。

seseragi-mentalclinic.com

 

(前略)

ひとはどんな時に不安になるかと言うと、自分でコントロールできないことがあると、不安になります

そしてコントロールできない程度が強くなればなるほど不安も強くなります。

自分でコントロールできないということは、言い換えれば 「結果が読めない」という事です。私たちは、その不確実性を「不安」として感じるのです。

(中略)

不安で困っている患者さんの話を聞く限り、 代表的なものとして

・人間関係
・未来

が多いようです。

これらは自分の努力のみではコントロールできません。

洗脳でもしない限り、意志を持っている「人」を、完全に コントロールすることは不可能です。仕事や恋愛などの人間関係で不安を感じて悩む人が多いのは相手を自分で100%コントロールすることができないからです。

実際に営業職などの対人関係が多いお仕事は 「不安」で悩む頻度が多く、精神科・心療内科を訪れる頻度も高い印象があります。

また、未来も誰にも分からず、不確実なものです。「明日私は絶対に生きてますよね?」 という質問は、どんな名医であっても「YES」とは答えられないでしょう。

 

 

不安とは「自分でコントロールできない、不確実なこと」とある。

つまり、私は「私を大事にする」ということをコントロールできていない、ということ。

確かに「私を大事にしよう」と考えると情緒が不安定になり、息苦しささ頭痛がする、感情や心身をコントロールできていない。

 

また、不確実なこと、「私はまた間違えたのではないか?」と言う猜疑心がある。

いつも自分との約束を破ってきた、何気ない一言で人を落胆させた等、私の愚行は際限なく、私を奈落の底へと落としていく。

 

「間違えていたら、どうしよう?」

 

これが私が「私を大事にしよう」とすると不安になる原因だろう。

 

「間違える」とは一体何を「間違える」というか?

私の不安は下記リンクに記されていた。

uenokoeda.hatenablog.com

 

危険な思想はいつか危険な言葉を言い、それがいつか危険な行動へと移る。

そうした行動がいつか「危険なことをすること」を習慣となり、いつか危険な性格へとなる。

そして、危険な性格の人物の運命は勧善懲悪の理に従い、罰を受けるでしょう。

だから、危険な思想は怖がられるのです。

 

 

例えば、酒鬼薔薇聖斗、加藤智大、植松聖などの重大事件を起こした人物がいる。

彼らの危険な思想があった、だから、あの重大事件が起きた。

そして、おぞましいことに、私も彼ら犯罪者と同種である。

もし、このような危険な思想を持った人間を大事にしなければならないとなったら…私は怖くて仕方がない。

社会に多大な危害を与えてしまうのではないか?普通に生活をしているつもりになってはいないか?

ちょっとした切っ掛けで、誰かを傷付けて悲しませてしまう、屑を大事にするなんて、血も凍るような気持ちだ。

 

例えば、太宰治、中原中也、石川啄木のような迷惑を迷惑と考えていない人物がいる。

借金をして豪遊したり、親の仕送りだけのニート生活だったり、社会性の欠如した人間だ。

彼ら文芸人ともまた、同種である。

ただ、一つ決定的に違うのは、彼らは世を動かす才能があり、私は自分さえままならない無能であるということだ。

もし、こうした駄目人間の上、才能もない無能を大事にしなければならないとなったら…私は絶望しか見えない。

怠惰な毎日を少しでも改善しようとしているのか?人に認められる努力をしているのか?

そうした積み重ねを一切せずに、ご大層に「私を大事にする」など傲慢が過ぎる。

 

一体、どうすれば良いのか…?

 

上記の「不安を解消する、6つの考え方」を再び参照する。

(前略)

不安から完全に逃れることは可能でしょうか?

それは、不可能です。

未来・将来がない人はいないし、それを考えないひともいません。人は不安から完全に逃れることはできないのです。

もし仮に、「不安がまったくない世界」があったらどうでしょうか??

不安で悩んでいる方にとっては、夢の世界に感じるられるかもしれませんが、果たして本当にそうでしょうか?

不安がない、という事は、全てに確実性があるということです。すべての事象は自分の制御下です。

自分の行動に対して、相手がどのような反応をするのか、手に取るように分かる。明日、何が起こるのか、全て把握している。という事ですよね。 確かに、これなら不安は感じないでしょう。

「明日の商談の成功率は100%。絶対に失敗しないことが分かっている」
「明日、事故に遭う確率は0%」

こう分かっているので、明日への不安は0です。

でも、それって楽しいでしょうか?

私なら、生きる意味を失ってしまうと思います。分かりきった毎日をただただ過ごすのは非常につらいことだと思います。全て決まりきった人生を決められた通りに生きていく。不安はなくなるかもしれませんが、生きる楽しさやワクワク感もありません。

このように「不安のない世界」を考えてみると、不安というのは必要なものでもあるのだ、という事が見えてきます。

過剰な不安が害なだけであって、適度な不安は人生をより豊かにするために、必要なものでもあるのです。

私たちは不安から逃れることはできません。しかし、不安は私たちにとって必要なものでもあるのです。

この事に気づくと、 不安は、敵対視するのではなく、

「上手く付き合っていく必要があるもの」

という捉え方をすべきだと気づきます。まずはこのことに気づくことが、不安を上手に解消する第一歩です。

 

 

…なるほど?適度は不安は必要か。

不安がなければ、生きる目的がなくなるとは、面白い視点だ。

そして、ふと下記の記事を書いたことを思い出す。

uenokoeda.hatenablog.com

 

タイトルで書いている通り、内面の追求が私の生きる目的だ。

………つまり、内面を追求している時、私は「私を大事にする」ことができている?

 

灯台下暗し、すでに私は自分を大事にしていたとは…

ただ、この方法は、私の弱さ、無能さ、危険思想である、私の内面の全てを掘り起こすことで成立しています。

これは、果たして、忠言して頂いた皆さんが思い描く、「私を大事にする」ことだろうか?

自らを否定することで、世界を肯定する作業に意味を見出していた訳だ。

皆さんが言うのは、「自らを肯定して、世界を肯定する」ことだろう。

すると…内面の肯定が鍵になる?嗚呼、また不安になってきた…

 

ある意味、「私を大事にする」ことを考えると不安になる、というのが最も私らしい個性と言えるだろうが。

何を肯定すれば、私の負担にならず、私を大事にすることに繋がるのか?

それでまたふと思い出す。

uenokoeda.hatenablog.com

 

求道者…「私を大事にする」ことを考えるに、この定義を徹底が必要だろう…

求道者を突き詰めれば、自ずと私は私を大事にできる。

………………………ハズ。もしかしたら、間違えているかもしれない。

しかし、様々な思考から、確からしい方向だと推察する。

この方法が一番確実で、皆さんとのズレが少なくなると確信する。

 

そして気付く。私が「私」を思考する意味はここにあるのではないか?

あえて、言い切る。

 

「私」を規定する思考は、私を大事にするためだ。

 

ミクロ視点、私が「私」を思考するのは、自己肯定を求めていた?

にわかには信じられないが、過去の記事からそう結論付ける他ない。

ここに来て、ブログに記事を書いたのが幸いするとは…瓢箪から駒とはこのことだろう。

 

マクロ視点での私が「私」を思考することや、求道者としての私とは何か等、考えるべき事柄は多々あるけれど。

一先ず、私にとって有意義な記事が書けたことを祝福しよう。

 

空っぽな私の中に小さな「私」を見つけられたことに、乾杯。

69

ああ、時間がない…

最近、仕事が早く終わる。

それなのに、書く時間がない。

 

理由は明白だ。

帰ってすぐ布団にダイブして、そのまま起きないからだ。

肉体労働で疲れた私の身体は、布団の手招きに抗えない。

 

椅子に座っても、脳みそが空回りするだけで一向に書ける気がしない。

カランカランと鳴っているのは、何の音だろうね?

それは、固く水分が抜け切った私の脳みそが頭蓋骨を叩く音さ!

 

まあ、現実世界の物質である私の身体が私の生活を支えているので、身体を労るのは当然なのだが。

普通に、疲れたから眠る、とだけ言った方が伝わるな。

やはり、空回っている。

もうどうにもならないもどかしさ。

 

嗚呼、時間がない。

言い訳する時間さえない。

ブログ更新も楽じゃない、ふわあ…

 

投稿します。