ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

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漫画「宇宙兄弟」の32巻を読む。

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この巻には、南波六太の月面チーム一大きい男、アンディが活躍する話も収録されている。

その話の中に、アンディが面接に来た時に、当時面接官であったハガードFDがある質問をした。

 

「“2人以上”の誰かに同じことを褒められた経験はあるか?」

 

後日、アンディは、ハガードに会ったときに母と偉大な先輩から「良い意味で鈍感、タフな人間になれる」と褒められたことを伝える。

それを聞いたハガードは、こう答えた。

 

「2人以上が同じことを褒めてくれたなら、それは間違いなくお前の真実だ、信じていいんだ」

 

同じことを褒められる、というのが、大事なのだろう。

ニュアンスは変わるかもしれないが、2人以上の別の誰かから、同じことを言われるのは、普段から、そうした振る舞いをしているからだ。

だから、同じことを褒められる。

 

褒められても、あまり素直に受け取らない私だが、真実という言葉が、私を引き止める。

人間は、万華鏡をクルクルと回せば、模様が変わるガラス片の幾万の組み合わせのように、幾つもの顔がある。

しかし、万華鏡がキラキラと、川面の日の光の反射のように眩く光る美しさが、変わらないことも確かだ。

 

私は昔から、大体の人に「優しい」と形容される。

何を持って、「優しい」かは分からないが、今は、これも私の真実なのだろう、と受け止めることにした。

 

また、最近は「美しい、綺麗な文章を書く」ことを2人以上に指摘された。

今一つ、分かっていないが、「美しい、綺麗な文章を書く」のも、私の真実だと引き受けることにした。

面映いのは、日の光に照らされて、皮膚が赤く焼けて、痒くなるように、褒められる人の優しさが私には少し勿体なく感じてしまうから。

信じてみよう、頬を一頻り、ぽりぽりと掻きながら。

 

2人以上に同じことを褒められた経験は、あるか?

もしあるならば、それは、信じても良いことだと、ここに書き残す。

237

八方に良い顔をする、下らない私だ。

その癖、友好な関係は築けない。

根っこは同じ、私は人との関わりを減らしたい。

 

私は私の考えるように考え、私の身体を動くように動かす。

それは、しかし、何処までも自分本意で、気付けば、多くの人を深く切りつけている。

丁度良い距離感が分かっていない。

自意識過剰に反応するか、無頓着に反応しないかの、極端な関わり方になってしまう。

 

だから、人と話す時には、なるべく朗らかにして、波風を起こさないようにする。

だから、人と話さなくて良い時は、なるべく静かにして、空気になる。

関われば、何時か迷惑になるからと、下手くそな愛想笑いを浮かべる。

 

生きていくためには、どうしても人と関わらざる得ず、ほとほと困る。

大なり小なり、迷惑をかけることになるから。

迷惑をかけないようにするには、人との関わりを減らす他ない。

 

などと、インターネットの海の中へ、毒を吐く。

誰が見るかも分からないのに。 

私の口の関所は、するすると止めることなく良く通す。

次いでに、欠伸も出ていく。

 

人が離れるのは、寂しいような気がするが、ほっとしている私もいる。

これで良い、これで良い。

拗れたままに、八方に向く。

 

最近、ネガティブ発言が目立つが、感じたことはそのままに書くことにしている。

むしろ、ネガティブな言葉に私の本質がある。

隠すことは、是としない。

頭しか隠せず、尻が丸見えなのも、理由にある。

 

これからも、感じたことは書く。

八方に毒を吐きながら、八方に良い顔をする、下らない私をご容赦ください。

236

田舎の夜は、早い。

駅の街灯は静かに灯り、通りはひっそりとしている。

私は、東京から帰省していたSくんを、駅前の居酒屋へ誘った。

Sくんは二つ返事で応じ、20時頃、2人は居酒屋の前へ来た。

 

赤提灯に赤く照らされた居酒屋に、「営業中」と独特の文字で書かれた木札がぶら下がっている。

普段お酒を飲まない私は、縄暖簾をくぐる手が、ほんの僅かに強張った。

 

店の中は、がらんとしていて、お客さんは1人だけだった。

私とSくんは、玄関近くの席にゆっくり座り、ビールと枝豆を頼んだ。

 

大したことは話さなかった。

お互いの仕事のこと、これからのこと、本当に些細なことばかりを話した。

Sくんは熱燗を頼んで、顔を赤くしていた。

私も梅酒のロックと芋焼酎のロックを頼んで、陽気に呑んだ。

大したことではないが、楽しかった。

 

21時45分に居酒屋を出た。

閉店が22時だからだ。

3杯では、酔うに酔えないが、周りの店も同じ時間に閉める。

田舎の夜は、本当に早い。

 

私は渋々といった風情で、Sくんとタクシーに乗って家路に着いた。

予め敷いていた布団に飛び込んで、ゆっくりと意識を閉じていく。

微睡む幸せを噛み締めながら。

 

落ちはない、眠りには落ちたが。

次は、もっと呑みたい、正月明けかな。

235

ざりざりと、凍った道路を走る。

雪を何度も踏み固めた轍の中の、タイヤの溝で固められた氷を、巨人が木造建て一軒家に足をかけるように、踏み潰す。

冬の朝の、とある一幕だ。

 

氷を砕く音というのは、小気味良く、童心を呼び覚ます。

氷を砕く音は、どうしてこうも、胸踊るのだろうか?

寒い冬の朝の、宝石のような氷を、最初の一歩で踏み砕く、その瞬間の特別な音だから、と私自身に当てはめる。

 

同じ冬はない、同じ朝はない、同じ氷はない。

なのに、冬の、朝の、氷の音は、いつも特別な瞬間を私に聞かせてくれる。

飽きる日は、来るかもしれないが、来ないかもしれない。

 

晴れが続けば、鳴り止む、氷の道だ。

晴れが続けば、忘れる、氷の音だ。

そんな氷が啓蒙する、私に問いかける。

 

最初の一歩は、何時だって特別だ。

最初の一歩を、あなたは踏めているか?

きっと身が震えるのは、寒さだけではない。

 

ざりざりと、凍った道路を走った。

私の横を通り過ぎた氷の音は、振り返れども、何処にもない。

ただ、通り過ぎた道の上に、砕けた氷の破片が、ばらばらと散らばっているばかりだ。

 

2018年、最初の一歩に惑った話だ。

「朝」は朝であり、朝でしかない。

世界の見え方を取っ掛かりに考える。

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以前、「美しい、綺麗な」文章を私が書いていると、幾人かに言われたことを記事にした(下記リンク参照)。

uenokoeda.hatenablog.com

 

それらのやり取りの中で、私自身が、どう世界を捉えて、見ているのか?の視点については考えていなかった。

言葉の受け取り方については、考察したことがある(下記リンク参照、再び)。

uenokoeda.hatenablog.com

 

ここでは、言葉を発する前、大まかな印象を共有する前の、物事の捉え方や世界の見え方について軽く考察したい。

 

まず、「朝」を迎えた、というシュミレーションで考える。

外は晴れていて、遠く険しい山々の岩肌や、細長く流れる雲、声高に走るカブに、冷たくひりついて鼻を赤くする空気が、戸を開けた瞬間に、私に「朝」であることを実感させる。

顔を上げれば、空は晴れ晴れとしていて気持ちが良いのだが、この「気持ちの良い」は私の主観だ。

その日の感情によって、朝が快活になるか、憂鬱になるかは違うだろう。

 

普通の人は、「朝」は朝以外は有り得ないのだろうか?

つまり、他に考える、感じる余地はないのか?という疑問だ。

「朝」は朝なのだから、それ以外に何があるのか?と言えば、特にない。

ただ、時に、「ああ、だから朝なのだな」、「この朝は何か予感めいているな」と感じることはないのだろうか?

私も「朝」は朝でしかないのだが、時に、朝について考えを巡らすことはある。

書いていて気付いたが、普通の人は、何を食べるか、何時に出かけるか、諸々の予定について考えるのであって、「朝」そのものについて考えるなど、暇な人しかしないか。

設問から間違えた、「朝」は朝でしかないのは、当たり前だ。

 

しかし、どうも私は、物事を直截して見ていないだろうか?

つまり、物事をそのままに捉えようとしている、のではないだろうか?

「確からしいこと」を書こう、という私の実感を元に思考している。

「朝」を題材にしたのも、私の実感からであって、他の人の実感ではない。

他の人の「朝」について、思考している訳ではないのだ。

 

云々と考えていたら、Facebookで面白い記事を見付けた。

物事をどのように考えているのかを、ある2つの仕草から判別できる、らしい。

物は試しでやってみた。

 

>>>

「物事をどのように考えるのか?」

両手を指と指を交差するように組む。

この時、どちらの親指が下になっているか。

左親指が下か?

右親指が下か?

 

次に、自分の腕を絡めるように組む。

この時、どちらの腕が下になっているか。

左腕が下か?

右腕が下か?

①左親指が下、左腕が下。

ささ脳

論理的にとらえ、論理的に処理。

物事を筋立てて真面目に考えるタイプ。

几帳面で努力家。

 

②右親指が下、左腕が下。

うさ脳

直感でとらえ、論理的に処理。

完璧主義。

自分で決めたい。

個性派。

 

③左親指が下、右腕が下。

さう脳

論理的にとらえ、感覚的に処理。

理想と現実のギャップに苦しむ自己矛盾型。

転じて、細かいことは気にしないタイプ。

 

④右親指が下、右腕が下。

うう脳

直感的にとらえ、感覚的に処理。

楽天的でマイペース。

直感とひらめき重視な感覚人間タイプ。

 >>>

 

実際に指を組んだり、腕を組んで、自分がどのタイプか探るのも一興かもしれない。

さて、私は3番の「さう脳」タイプだった。

つまり、「論理的にとらえ、感覚的に処理」する、とのこと。

…んん?どういうことだ?

まず、これは、言葉の定義をきちんと把握する所から…とこういう所が論理的なのか?

そして、その定義から、私の実感に即して言葉にしている、成る程、感覚的に処理している。

 

つまり、「論理的にとらえ」とは、「確からしいこと」を定義しようとすることだ。

「感覚的に処理」とは、私の実感に即して言葉にする、ということだ。

 

逆に言えば、「直感的にとらえ」とは、五感で感じるということだろう。

「論理的に処理」とは、知識や道理に即して言葉にする、ということだろう。

 

何とも、私の思考回路は、面倒くさい思考をしている。

何となくだが、マジョリティな思考ではない気がする。

それとも綺麗に4等分できるのだろうか?

 

何やら、また、見当違いのことを考えている。

もう一度、最初から、だ。

こうして、堂々巡りを繰り返す。

 

それでも、これは「確からしいこと」だろう。

あえて、言い切る。

 

「朝」は朝であり、朝でしかない。

 

堂々巡り、順巡り、日が昇り、朝を迎える。

「朝」は朝なのだ。

論理的にとらえようが、直感的にとらえようが、「朝」は朝だ。

論理的に処理しようが、感覚的に処理しようが、「朝」は朝でしかない。

 

当たり前のことを、ドヤ顔で書くのは、はて誰だろう?

 

何はともあれ、これで良し。