義足を取っ掛かりに考えます。
片足がない身体障碍者が、歩行するために使う義足。
皆さんにはあんまり馴染みがないでしょうね。
義足というとパラリンピックの陸上競技でバネの力で進む走れる義足が有名ですかね。
凄い速度で走るものだから、道具を使っていて反則だ!みたいなことも言われてますけど。
まあ、技術の進歩って奴ですね。何時か、ウサイン・ボルト並みの速度が出る義足が出るかもしれません。
因みに私の両親は義足です。
理由は何だったか?確か、二人とも事故だったはず。
そろそろ、車椅子にした方が良いような気がするんですけどね。
子供の頃から義足は見慣れているんですよね。
だから、故にですかね?
あえて、言い切る。
「周りがどう感じるか」の前に「自分がどう感じるか」が大事だ。
小さい時には母と一緒に寝ていた訳ですけど。
寝る前に母は義足を外して寝る訳です。
ごとりと置かれた義足を見て、私は思いました。
「義足って格好良い!」
だって、身体から分離するんですよ?ロボットみたいに。
変形ですよ、変形。超COOL!とか考えてました。
だから、周りの同級生から「変な歩き方だね」と言われても「母は義足なんだ」と誇らし気に答えてました。
中学、高校でそれを言うと、変な空気になってましたけど。
人から可哀想、と言われるまでそれが可哀想なことだと思わないことってあります。
私にとって母や父が義足なのは普通で格好良いことで可哀想なことではありませんでした。
しかし、周りは「大変だね」とか言われると大変なのかな?と考える訳です。
子供心に、「これは可哀想なことなのかな?」と感じて中学の時にはそれが拗れてちょびっと悩みました。
障碍者は皆、大変なのだから健常者が慮らなければならない、そう考えていて。
ただ、それで(でも、身障とか知障とかの言葉でその人を遠ざけてやしないか?)と。
同級生が「身障」、「知障」と人を嘲る時に使っているともやもやした気持ちになったものです。
そうした中で出会った一冊の本が私の悩みを解決してくれます。
内容はほぼ忘れてますけど、一節「障碍者でも嫌な奴は嫌な奴だ」とありまして。
それが私のもやもやしていた「身障」、「知障」と言って嘲っていた人にとってその人はそういう馬鹿にする人であっただけで、障碍者を遠ざけていたのは私だった…と。
↑当時はここまで深く考えてませんでしたけど、パアッと視界が開けたような感じで以降、そういう「身障」、「知障」の文句は気にならなくなりました。
ここから「周りがどう感じるか」よりまず、「自分がどう感じるか」が大事ではないか、と考えるようになりました。
もちろん、まわりの感じ方は自分とは違う視点で気付かされることは多々あります。
でも、曇りなき眼で真実を見なければなりません!
障碍者でも嫌な奴は嫌なんだ、逆に言えば、良い奴は良い奴なんですよ。
インパクトがあることに目が引きますけれど、本質を見るには膝付き合わせて。
まあ、そこまでしなくても良いんですけどね、実際。
ただ、今でも私は両親の義足は格好良いと感じています。
可哀想な親ではなく、普通の両親です。
たったそれだけの小さな事実です。
最後に…ごほん…
曇りなき眼で真実を見ましょう!…うん、もう一度言いたかっただけです…