バランを取っ掛かりに考えます。
弁当の各おかずの敷居となるあの緑のギザギザ、バラン。
揚げ物と他のおかずの間によくあるイメージがある。
写真に写っているバランはホームセンターで買った。
いやはや流石、何でも売っているホームセンターだ。
まさかバランが買えるなど思いもしなかった。
段ボールに緑が良く映える。
しかし、ホームセンターで売っているのいうことは買う人がいるのか?
わざわざお弁当にバランを入れるとは……はて、どう言う状況だろうか?
いや私の勝手なイメージだが、手作り弁当にバランはチグハグな印象が私個人にあるだけで普通に使うご家庭もあるのだろう。
それにしてもこれを買うときに初めて名前を知る人もいるのではないか?
「弁当に入っている緑のギザギザした奴」の方が伝わるだろう。
いや、やはり正式な名称は重要だ。
緑のギザギザしたのはバランでない可能性もある。
雑草とか緑でギザギザしているから、もしかしたら弁当に入ることも有り得るかもしれない。
うむ、食品衛生法をガン無視した夢想は鼻で笑うに限る、ハンッ!
さて、取りあえずここら辺にして本題へ。
変に回りくどく言っているが名前付けが前振りである、察してくれ。
あえて、言い切る。
「友達」とは何かを思考するには、言葉の定義が必要だ。
はてなブログで身勝手に記事を上げる前。
私の思考をあげつらっていた場所はFacebookだった。
それで、Facebookでは「友達論」を書いていた。
単純にどういうことを書いたのかと言えば……
「基本、私の考える7つの要素と3年の年月を経た人が私の考える「友達」でそれ以外は私の中で全て等しく「知り合い」である」
7つの要素というのは下記の7つの箇条書きである。
1、一緒にいて楽
2、私が駄目な人間であることを理解してくれてる
3、私がその人を尊敬している
4、お互いに本音が言える
5、離れていても大丈夫
6、また会いたいと感じる
7、こちら側が友達であると認識している
更に加えて。
「友達のランク付けをすることは正しい。くらべることで自分にとっても相手にとっても居心地の良い状態になるから」
私の信条として「くらべることは正義」であると考える。
故に、この言い草なのだ。
「私にとって「友達」は私が尊敬が出来る人。ただ、私が尊敬が出来る人を私が勝手に「友達」だというのは相手の気持ちを無視しているのではないか。だから、私は多くの人を「知り合い」にしている」
私が勝手に「友達」と考える人はいるけど、実際はどうなのか? という所では「知り合い」なのだ。
「私が駄目人間であることを理解して接する人が「友達」である前提にある」
この根っこには「100%の私を知って欲しい」のかもしれない。
ただ「100%の私」は大変面倒なので、面倒な奴という点を理解してないと相手にするのは無駄な疲れになると予見している。
そう、拗れてる。
私はそれでも構わないだが。
そうして拗れた私は考えた。
「友達って何?」
ぼっちな私にはもっとも縁遠い存在だ。
遊びに行ったり相談したりとする相手はいる。
ただそうした間柄の人たちを定義するのに「友達」とは言えずにいた。
それはバランで言うところの「緑のギザギザした奴」の部分に相当する。
「緑のギザギザした奴」はバランのことを指しているが、人によって「緑でギザギザした奴」はバランでないかもしれない。
しかし、「バラン」という物に「バラン」という名前を付けることによって「バラン」は「バラン」になる。
どちらかと言えば、バランより「緑のギザギザした奴」と言った方が伝わるだろう。
それと同じく、「友達」と言った方がイメージし易いのは分かる。
しかし、そういう言葉では言い尽くせない関係性を私は感じてしまっている。
私が拗れているから、拗れた私と付き合う方は奇特なのだ。
私が納得しないから、私は関係のある方々との関係に名前を付ける。
数が少ないから、紹介してしまう。
※名前は伏せる。
1、悪友
一番付き合いが長い人だ。
女性で今は愛知県に住んでいる。
多分、言葉の定義の最初がここら辺だ。
確か、高等学校時代に手紙を出した時に「親愛なる悪友へ」と送ったのが最初だろうか?
いや、悪友と言い始めたのは向こうであったか? ルーツを忘れたな……
ただ、彼女ではないし、友達と言うには……相手に対して私がちょっと重い。
だが、ベタベタした関係ではない。
そうして考えていくと、悪友という言葉が妙に腑に落ちるのだ。
世間一般の悪友とは違うだろうが、私にとって唯一無二の悪友だ。
2、ディフレ
正式名称は「ディスカッション・フレンド」
相手は、同い年の男性だ。
討論? というか、その人と話をすると思いがけない方向に行くので大変楽しい。
しかし、決して友達ではない、ここは重要だ。
友達ではないが会えばお互いに疲れるくらいには話し込むので、関係性に名前を付けた結果がディフレになる。
私の人生の必要な存在、ディフレだ。
3、FBF
正式名称「FacebookFriend」だ。
Facebookで繋がっている人たちが該当する。
私にとって「友達」は希少で崇高な物なのでFacebookの繋がりの人たちを「友達」というのに抵抗がある。
しかし、「お前は友達じゃない」と言うと悲しいと言われ、無い頭を絞って出した定義だ。
え? 素直に友達と言えば良いじゃないか? いやそれは遠慮します←←
FBF、インターネットと私。
4、マイミク
mixiをしていると友達になった方を「マイミク」と呼ぶ。
このシステム最高だ。
mixiの友達は「マイミク」、既に定義してくれてる! 親切!
しかし、悲しいかな今「マイミク」と呼べる人は一人だけになる(より正確にはmixiでの関わりがあるのが)。
実際に会えたのもその人だけだ。
つまり、現時点でマイミク=その人なので、自動的に定義されてしまう。
これがぼっちの本領! 皆私を過ぎ去っていく。
過去の私の最後の一人、それがマイミクだ。
5、甚大な被害
……実は今目下関係の定義をしたい人が居る。
私は友達とは言いたくない上に、むしろ嫌なところが目に付く。
だが、何気に私の人生に影響を与えているので無視も出来ず。
何か適切な言葉で定義したいが……中々難しい。
「甚大な被害」はその人専用のメールボックスだ。
いや、本当、どういう名称が相応しいのだろうか……?
それぞれ私との関係があるのだが、やはり世間一般の「友達」とは違う気がする。
人に説明するとき「友達」と言うしかないことはある。
ならばどうしてわざわざ定義するのか?
それは私がその関係性を大事にしたいから、曖昧な言葉にしたくなかった。
結句自分のためなのだ。
ただ「友達ってなんだろう?」と考えている人がいると仮定して。
その人に向けて提案をするならば。
まずは関係に名前を付けてみたらどうだろうか?
言葉にする過程で、自分でも気付かなかったことに気付ける。
また、相手との関係が自分にどう影響するかも分かる。
そうしてそれら言葉の先にある、「自分のため」になる。
いやリア充には不必要なことやもしれん。
「友達は友達で良いじゃん?」と。
ぼっちにも実は不必要ではある。
「友達なんて居ないよ?」と。
いや、何の為の考察だったの? と問われると……
「仮定」の話というか……私個人の話というか……
バランバランにされてしまう前に、逃げる。
あ、最後に。
私と付き合ってくれる希少で崇高な読者様へ。
これからも、当ブログをよろしくお願いします。以上。