6.尚、闇は続く
「お兄ちゃーん」
遠くから僕を呼ぶ声が聞こえた。
カケルだ。
僕が弟だと思い込んでいた何かだ。
僕はぐっと息を飲む。
カケルは、ソレは未だ僕を兄と呼ぶ。
歯を食い縛らないと返事をしてしまいそうになる。
得体の知れない、ある種の妖怪のようなソレであることは分かっている。
分かっているが、先程まで幼い弟と信じていた僕は、弟ではないという事実を受け止め切れていない。
ソレと繋いでいた手の温もりを否定できない。
理性と感情が矛盾している、現実と解離した矛盾。
この空間そのものが現実と矛盾している。
あの木もあの空も朱い何かもミカヅキもカケルも、何もかもが現実ではない。
今までずっと感じていることだ。
しかし、すべては僕の網膜に映り、鼓膜を震えさせる。
鼻腔で冷たい空気を吸い込み、熱しられた空気を吐き出す。
最早、僕もこの異世界の一部であることも静かに脳の片隅で認めた。
「お兄ちゃーん、何処にいるのー?」
ソレが近付いて来ている。
ミカヅキを見ると陶器のように滑らかで青みがかった白い横顔は木々の奥をじっと睨んでいた。
やはり美しいな、と何度目かの場違いな思いを抱きながら、僕はミカヅキに尋ねた。
「これから、どうする?」
ミカヅキは一度僕をちらりと見て、視線を戻した。
「…ここが迷い人の入り口、人の世の境目、魔の力の終わり」
がざ、がざざ
…お兄ちゃーん…木々が擦れる音が強まってきた。
ミカヅキが僕の前に来た。
「つまり、別の場所に行けない」
がざ、がざざ
…何処にいるのー?
…先ほどより明瞭にこちらに来ているのが分かる。
「だから、立ち向かう」
がざ、がざざ…あ、そこにいたんだ…ミカヅキの視線の先へ僕は目を向けた。
木々の擦れた音の奥から、子どもの人影が見える。
「それに…」
がざざ、がざざざ
助けると約束した。
ミカヅキは多分そう言った。
最後の言葉は木々の擦れる音に紛れていたが、僕には、そう聞こえた。
木々の音が途切れた。
ゆっくりとこちらに来るソレは、急に明るい所に出たときのように目を細めた。
そして、僕の姿を認めると笑いながら言った。
「みいつけた」
その声は、その笑顔は無邪気だ。
とても無邪気だ、怖いくらいに。
ソレはケタケタと笑いながら近付いて来る。
「もう、お兄ちゃん。置いて行かないでよ?」
ミカヅキが一歩前へ進み出て、敢然とソレと対峙した。
そして、ミカヅキは僕にそっと告げた。
「…私の影の中へ」
僕はその言葉に聞いて、ミカヅキの影に身体を丸めて収まった。
ミカヅキの影は夜より尚深い黒で、灯りのない落とし穴のようだったが、影の外と隔絶しているようでもあって、その黒さが僕を幾許か安心させた。
僕はミカヅキの影は少しだけミカヅキの背からずれていて、僕からソレが見えた。
僕は可能な限り、身体を小さくして、ソレの視線から外れようとした。
ソレはすっと立ち止まると顔をしかめた。
街灯の下で羽虫の群れの前にしたような、嫌な者を見ているような顔だった。
「…またお前か。お前には用はないんだ」
声は、幼子なのにその声の質は冷たく、僕の背筋を凍らせた。
その声の冷たさにソレの正体が垣間見た気がした。
ミカヅキはソレに対してもう一歩前に進んだ。
ミカヅキは僕の返答の代理人だと言わんばかりに。
「…この人を返してあげて」
ミカヅキは凛とした声でソレに応えた。
ソレは、ソレの顔が歪んだ。
般若の形相、と形容するのも憚れるほどに歪んでいた。
目や口の位置で顔と認識できるけれど、その位置に留まろうとし過ぎて歪になっているようにも見える。
そして、これは僕の目の錯覚であって欲しいのだが、空間も歪んでいる。
嗚呼、何て恐ろしいのだ。
ソレは幼子の振りさえ忘れている。
「お前は関係ナイ!」
ソレは怒りのままに叫んだ。
その叫びは大気を震わせるほどの大声と言う訳ではなかった。
しかし、腹の底でずしんと響くような声だった。
「オニイチャント、アソブンダ」
ソレは再び前へ進んだ。
キャンパスに無茶苦茶に塗りたくった油彩画の背景のように、ソレの周りの景色を混色させながら。
僕はミカヅキの影からその様子を見ていた。
ミカヅキが息を吸い込んだ音が聞こえた。
「苗を荒らす鼠よ、我の手の中へ、収まれ」
瞬間、金属を引っ掻くような甲高い音とソレの景色が爪痕のような黄金の三本線が入った。ソレは首を、首だけを後ろに回してその三本線を見た。
「アア、オマエ、カタイナカノマジョノ…」
ソレはぐるんと首を前に戻すとニタリと笑った。
何故だか僕はその顔を見て、この笑い方が似合っているな、と感じた。
先ほどから冷や汗が止まらないのに、頭の中は目の前の非現実を冷静に見ていた。
悲しみに似た恐怖への諦念が僕の神経を麻痺させていた。
「…次は当てる。この人を返してあげて」
ミカヅキはきっぱりとそう告げた。
その言葉が最後通告であるかのようだ。
ソレの顔が更に歪み、顔だったその枠内のパーツは渦潮を巻いているようにも見えた。ソレは何も言わなかった。
ミカヅキも何も言わない。
お互いに睨み合っている。
硬直状態、鉱物同士が擦り合う音が聞こえそうなほどの静寂が場を支配していた。
ミカヅキの表情が見えない。
僕はミカヅキの影に隠れているのだからどんな顔をしているのか分かる道理はない。
僕は、急に情けなくなった。
ミカヅキが僕を助けるのにどんな理由があったかは知らない。
けれど、今、ミカヅキは僕を助けようとしている。
僕を助けようと僕の前へ立っている。
それなのに、僕はどうだ?
ミカヅキに言われるがまま、ミカヅキの影に収まって、ビクビク怯えているだけではないか。
ミカヅキが僕を助けるのに理由は知らない。
だけど、僕がミカヅキの影に隠れて良い理由は、ない。
僕はミカヅキの影から出た。
影から出て、ソレと目が合った。
ソレの周りの景色が水滴を落としたように広がったかと思うと急激にソレの中心に向かい、ソレの顔は幼子の端正な顔になり、ソレの景色もまた元に戻った。
ミカヅキは僕が影から出てきたのを気配で感じているのだろうが、黙している。
ソレは僕に微笑みかけた。
「お兄ちゃん、こっちに来てよ?」
その一言で僕の膝は笑って動けなくなる。
だけど僕は、目を閉じ深く息を吸って、短く自らに問うた。
僕はどうしたい?
その答えは、もう決めている。僕は一歩前に進んだ。
「僕は、元の世界に帰りたい」
僕の望みはたったこれだけ。
他に何かを願っている訳ではない。
早く元の世界に戻りたい。
それだけ。
単純だけど強固なこの望みは、この異世界の否定だろうか?
違う、僕はただ、僕一人の足で踏み出さなければならない。
この良く分からない争いの始まりが僕ならば、この争いの終わりもまた僕が幕を下ろさなければならない。
ソレの返答を遅らせることでも、ミカヅキにすべてを投げ出すことでもなく、僕がどうありたいか、たったそれだけのことを答えとして言った。
たったそれだけのことにミカヅキの影の中で気付く僕は、きっと間抜けだろう。
だけど、不思議ともう怖くない。
身体中に張り付いていたあの恐怖はもう何処にもない。
僕は今しっかと立てている。
間抜けなりの矜持が僕の胸にある。
たったそれだけ、それだけで僕はソレと対峙した。
ソレの顔は無表情であった。喜びも悲しみも怒りもその顔には表れていなかった。
ミカヅキは、そっと息を吐いていた。