椅子にもたれて、目を擦る。
仕事の疲れからか、腰が椅子に瞬間接着剤で張り付けられているようだ。
それに、コロッケ6個に白米2杯を食べた満腹感も、立ち上がれない要因に加担している。
カレンダーを見ると、日付が24日とあった。
私の誕生日は、5月24日だ。
私が30歳になって、満5ヶ月となった訳だ。
実感が1ピコグラムも湧かない。
30歳と言えば、相当な熟達した大人をイメージがあった。
今の私は、「熟達した大人」とはかけ離れた、いや、それ以前の完全な別種だ。
テレビに出演する同い年のタレントを見ていると、余りの差に、私はいっそ清々しい気分になる。
ぐるぐると同じ毎日、同じ拘り、同じ間違いを繰り返している。
1年が光陰矢のごとし、何もかもを置き去りにして過ぎていく。
大人に成りたいのに、大人に成れないもどかしさ。
子どものような純粋さは、私にはもうないだろうに、子どものように振る舞う愚か者。
日々の仕事の度重なる疲労。
賽の河原で石を積み上げるような徒労。
私は何時になったら、胸を張って、大人を名乗れるだろうか?
考えていたら、悲しくなってきた。
さっきまでの幸せは、部屋の隅で埃と戯れている。
この悲しみは私の物だ、とまた拘り始める。
残り7ヶ月で、31歳。
40歳など、たった9年。
たった9年で、初老だ。
これが、次の歳が一気に100歳なら、後はぴんぴんころりで大往生することだけを考えれば良いかもしれない。
しかし、歳神様が歳をくれるのは毎年、1つ。
ただ生きるには長過ぎる。
何かをするには早過ぎる。
ぐっと短くて、ぐっと遅くしてほしい。
新幹線が東京ー大阪間を走るような過ぎ去り方ではなく。
カタツムリがコンクリートブロックでできた塀の目地から、次の目地まで這うような過ぎ去り方を所望する。
しかし、時間は森羅万象、古今東西、有形無形問わず、平等だ。
平等というのは、何もしない者にとっては、残酷だ。
同時に何かをする者にとっては、冷酷だ。
時間はきっとサディストに違いない。
そうすると、時間に支配されている人類は皆、マゾヒスト?
あれ?私は一体、何を考えていたのだろうか?
脳が空転する音だけがやけに五月蝿い。
何だか、悲しかった気がするが、そうでもなかったような気もしてきた。
椅子にもたれて、目を擦る。
時計の短針が、1目盛り、カチッと動いた。
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