ごうごうと吹く風に運ばれて、所在知らずの枯れ葉が足元に転がり込む。
分厚い雲が大儀そうに雨をぱらぱら降らす。
嵐の晩に鼻が詰まった私は、詰まらない記事の内容を思案した。
ファミリーレストランで、フリードリンクの最初の一杯を珈琲にするか、緑茶にするかで悩むように、内容を思案した。
全く、こうした詰まらない記事や、一人相撲の考察は、何の為にもならない。
3つあった短文記事の内、2つは770文字以上に書き直したが、益のない話に益のない話を付け足して、誰も読まない記事なのは変わりない。
それなら、何故、付け足すのだろうか。
立ち止まってみて、「書くこと」とは何か、疑問が込み上げた。
「書くこと」と「読むこと」は相関性はあるかもしれない。
しかし、「書くこと」と「読むこと」は全くの別物だ。
「書くこと」は、自己の発信。
「読むこと」は、自己の投影。
「書くこと」は、自分の中にある曖昧な形を、知っている言葉で繋ぎ合わせること。
「読むこと」は、他者の発した言葉の切れ端に、自分の「確からしい」ことと照らし合わせて確認すること。
他の人はどう考えているか知らないが、私は「書くこと」と「読むこと」を一緒にしない方が良いと考える。
例えば、多くの人は。
何か伝えたいことがあるから、「書く」のだろう。
何か伝えたいことがあって「書く」のだから、「読む」人が必要だろう。
しかし、「読む」人がいなければ、何か伝えたいことは伝わらないので、「書く」意味はない。
ならば、何か伝えたいことを伝えるために多くの「読む」人を意識して「書く」べきだ。
と、言う。
ブログにおいて、正論だ。
しかし、私の場合、「書くこと」自体が目的の一つである。
また、「私」の追求なので、私が理解すれば良く、則ち、「読む」人は私1人で良い。
なら、鍵付きの手記帳にでも書けば良いのだが、それだと長続きしない予感がする。
何故、私は「書く」のだろうか?
読まれたいのだろうか?
何か伝えたいことが、伝えなければならないことがあるのだろうか?
迷走する当ブログは、詰まらないことを是として、「読まれない」記事を「書く」。
もしかして、私は、大変な間違いをしているのではないか?
私の内に広がる漠然とした不安は、然りとて、どうすることもできない。
ごうごうと風が吹いている。
風に翻弄される枯れ葉が、まるで私のようで、嵐の訪れを予感させた。
投稿します。