何時からだろうか、日を跨いでも感動しなくなったのは。
今日が昨日に、明日が今日になる瞬間を飽きるくらい経験した今、驚きはない。
しかし、今日4月30日から明日の5月1日は一味違う。
平成から令和に元号が変わるのだ。
日を跨いだ瞬間に元号が変わるのか、儀式を最中に転換点があるのか、それは定かではない。
しかし、恐らく、多くの日本国民がそわそわしてしまっている日でもあるだろう。
折角なので、4月30日の夜を更かすことにする。
5月1日の朝に向けて、起き永らえる。
夜を更かすに、適当に言葉を書き連ねよう。
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目次
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1、比べることは良いことだ。
「くらべることを良しとする」、私の人生哲学の指針の1つだ。
このことを知人にちらっと話したところ、疑問を投げかけられた。
知人の言っていたことを要約すると、「人の良いところ、優れたところを見ていると自分の悪いところ、劣っているところが見えてしまい、嫌な気持ちになる」
「人と比べない、自分を大事にしよう」、「比べても不幸になるだけ」という文句はSNS上でよく見かける。
上を見れば果てがなく、下を見れば切りがない。
比べることは不毛である、とする論調は一理ある。
しかし、待って欲しい。
本当に比べることは悪いことなのだろうか?
結論から言えば、比べることは良いことだ。
どうして良いことなのか、その点を私なりに解説してみる。
注意してもらいたいのは、この解説は私の主観、感覚に基づいて思考したことである。
故に広く一般なものとはかけ離れている可能性がある。
それを踏まえて尚、私は「くらべることを良しとする」と考え、主張する。
的の心から外れているかもしれないが、的には当たっているだろう。
何故、比べることは良いことなのか、順を追ってみる。
1-1、比べることは良くないことなのか?
まず、何故、比べることが良くないのか?
例えば、「幸せ」を比べたとしよう。
よく見かける論調は以下の通りになるだろう。
他者Aさんはお金をたくさん持っていて豊かな人生を送っている。
それに比べて、自分は貧乏で何もできず、不幸せだ。
他者Bさんは多くの人と関わっていて楽しそうだ。
それに比べて、自分は友達が居らず、寂しい。
他者Cさんは自分の趣味に時間を割いてとても自由そうだ。
それに比べて、自分は没頭できるものがなく、無益に時間を浪費している。
しかし、人によって「幸せ」とは違う。
他者と比べてもその人にはなれないのだから、比べても意味がない。
比べるのは止めて、自分だけの幸せを探そう。
この論調は以下の手順に従っているよう。
・他者の良いところ、優れているところを上げる。
・その他者の良いところ、優れているところを自分と比べる。
・結果、自分の悪いところ、劣っているところが分かる。
・その結果を受けて、悲しくなったり、落ち込んだりする。
・比べても良くない、という結論になる。
これをもっと簡易な言い方に直す。
・見付ける。
・比べる。
・捉える。
・感じる。
・考える。
言い換えると、上記のようになる。
「見付ける」と言うのは、「気付く」と言い直しても良い。
これらの手順を踏んで、「比べることは良くない」とされている。
しかし、上記の簡易な表記だと何が問題かは分からないだろう。
それもそのはずで、簡易な表記で書かれたことは手順、そこに感情のベクトルはない。
そして、それがこの問題の本質、「最初から比べることに悪い感情がある、持っている」のだ。
「悪い感情がある、持っている」というのは、別の言い方にすると「傷付いてしまう感受性」だ。
この「傷付いてしまう感受性」が「比べることは良くない」とする論調に影響を与えている。
「見付ける」、自分の中で見過ごされていた部分に気付くところから始まる。
きっかけは様々だろうが、ふとした時に自分の境遇、人生と相手との相違に気付く。
例えで出したように、それまでは気付かなかったことだ。
見付けたことにより、「比べる」。
この比べる行動は、どうしてなのか?の落とし所を考えるのに必要だろう。
そして、どうしても落とし所がない、自分は相手のようにはなれないことに更に気付く。
その気付きを自分なりに「捉える」、即ち、どういうことなのか、言葉にする。
その言葉は自分の持ち合わせている言葉であり、知識だ。
その言葉や知識から、自分の感情と照らし合わせる。
そうして起きた「感じる」、感情の起伏を抱え込む。
出て来た言葉や知識に感情が伴い、それらが最後の「考える」ことへと移行する。
自分が納得する答えを導き出す訳だ。
一連の手順は、「傷付きやすい感受性」によって、後ろ向きの論調になる。
「傷付きやすい感受性」の持ち主はよく気付く人であり、優しい人なのだ。
よく気付く故に比べることが多く、それ故に疲れて果ててしまうのだ。
1-2、比べることは技術だ。
先に書いたことでは、比べることは後ろ向きになる要因について考えた。
しかし、前述したことは前向きに考えることができる。
最初から考えてみよう。
まず、「見付ける」。
この気付きは、一つのターニングポイントだ。
即ち、「今まで気付かなかった私」と「気付いてからの私」となる。
この気付きは、問題解決やアイディアの発展に必要だ。
気付きがなければ、何も問題は解決しないし、アイディアを閃かない。
相手の良いところ、優れているところに気付かないのは、勿体ない。
気付くことによって、行動が促される点も大きい。
気付くことは良くも悪くも、何かしらの行動へと変わる。
そして、何かが変わるのは、行動するからに他ならないだろう。
その行動を促されて「比べる」。
分析である。
気付いたことが一体何であるのか、比べることで明確になる。
ここで比べないと、曖昧模糊なものになって、忘れてしまう。
気付こうとする意識があるから気付くのであって、そうした意識がなければ比べることもない。
比べることがないのであれば、それは折角の気付きを見逃すことになる。
分析したことを「捉える」。
どういう意味、意義なのかを言葉にする。
その言葉に自分の感情を併せる。
「感じる」、感情の持っていき方、とも言える。
自分が感じたことを素直に認めて、次を見据える。
発奮の材料、目的の明確化と繋がる。
そうして、「考える」。
比べたことにより、得られるのは成長だろう。
これもよく見かける言い分だ、「成長するために頑張ろう」。
この社会、顕著に資本主義であれば、この比べることは重要だ。
比べなければ、何が良くて、何が悪いのか分からないからだ。
比べることによって生まれる競争性は、プラスで見れば努力の指針であり、マイナスで見れば争いの元だ。
比べることをネガティブに言えば、「果てのない徒労感」となる。
比べることをポジティブに言えば、「成長の機会」となる。
つまり、比べること自体は問題ではなく、比べる技法を使う人間の感情の問題、ということを再確認したい。
1-3、「私」の幸せという曖昧さ。
比べることは、思考方法であり、現実との付き合い方であり、感情のコントロールの仕方だ。
比べる一面だけ殊更に注目される。
では、何故に殊更に「比べることは悪いこと」となるのか?
幸せの話で言えば、「あの人に比べて私はなんて不幸なのだろうか」となる。
他人と比べたらお金がない、人望もない、夢や希望もない、と捉えれば、悲しく感じるのは必然だ。
しかし、幸せとは自分自身の中で見出すものだ。
貧しさの中にも姿勢正しく生きることはできる。
一人でもその孤独を愛することはできる。
未来が見えなくても、今を楽しむことはできる。
重要なのは、他者の幸せがそのまま私の幸せでは成り得ない、ということだ。
なら、私の幸せとは何か、ここが「比べることが良くない」とする根源になると考える。
即ち、「私の幸せ」の基準が曖昧ということであり、突き詰めれば「私」の存在(自意識)が曖昧なことを示している。
幸せとは漠然としている。
拗れ曲がったように見えても、当人が幸せと感じるならそれは幸せだ。
誰もが羨む環境であっても、当人が不幸せと感じるならそれは不幸せだ。
幸せ、不幸せを感じる「私」という実像を理解していないのではないか、と私は感じる。
何故、「私」を存在が曖昧なのか。
それは、「私」と自意識について考えることをしていないからであり、考えなくても生きていけるからだ。
ただ、生きていくだけであれば、「衣食住」があれば事足りる。
外に出歩ける衣服と、身体の動力源となるに食事と、安全に休める住宅があれば良い。
そこに膨大な時間、暇つぶしとなる日常があれば良い。
生きれいれば、日常を淡々とこなすだけで日々が終わる。
「私」という自意識などなくても何ら問題ないのだ。
しかし、幸せとなるとこの「私」の自意識が出てくる。
幸せを感じるのは誰か、となれば、「私だ」となるからだ。
この「私」とするのは、「私」という自意識を内包している身体を以て発している。
この「私」は絶対的な「私」だ。
唯一無二であり、他に比べるものなどない、「私」だ。
しかし、この絶対的な「私」は存在しない。
まず、身体や精神は変わる。
生まれてから死ぬまでに身体は成長と衰退する。
10歳の「私」と30歳の「私」と70歳の「私」は同一線上の自意識ではあるが、ずっと同じ思想や感じ方ではない。
それから、社会の関わる人で変わる。
家族と過ごす時の「私」と友達と遊ぶ時の「私」と仕事をしている時の「私」は、やはり同一線上の自意識ではあるが、同じ顔ではない。
絶対的な「私」は何時如何なる時でも、何処であろうと、どんな状況であっても決して変わらない「私」という者があるということだ。
私はこの絶対的な「私」に懐疑する。
今の私ができたのは過去の積み重ねであり、私以外の他者との関わりによって蓄積されたものと考えるからだ。
故に、絶対的な「私」ではなく、相対的な「私」の自意識がある、とする考えだ。
そして、相対的な「私」とすると、幸せについても一つの回答が示せる。
それは幸せの基準もその都度変化するものである、相対的幸せの考え方だ。
前述した「比べることは良くない」とする論の矛盾点は、比べるという相対的な観点で物事を考えるのに、幸せについては一種の絶対性がある点だ。
幸せの形はそれぞれ違うのに、何故か幸せの基準は同じなのだ。
お金の幸せ、関わりの幸せ、未来への投資の幸せ、それぞれ個別に基準を変えて考えれば良い。
どうパラメーターを振り分けるかは、その人の采配次第だ。
その上で不幸せと捉え、感じ、考えたのであれば、改善するように努めれば良い。
実現可能な範囲で考えれば、人一人幸せになるのは難しくない、と私は考える。
捉え方、感じ方、考え方の方法論でしかない。
1-4、選択肢の少なさは不幸とは直結しない。
この論点でしかし、尚、不幸せと言う人はいる。
それは、改善や努力をしたくても、選択肢が少ない、またはない、と言う人だ。
選べる選択肢が少ない、または選べないとなれば、不幸せだ、となるのは無理からぬことだ。
気付かなければ幸せだったのに、という事例もある。
秘密の不倫などはその典型的な事柄だろう。
気付いてしまったが故に不幸せになる、その悲しみは私は癒せない。
しかし、そも、気付き自体は前述した通り、方法論でしかない。
「今まで気付かなかった私」と「気付いてからの私」の転換がある、と捉えられることもできる。
そう、相対的な幸せであるならば、不幸せも相対的であるべきなのだ。
ずっと不幸せでな訳ではない。
技術で言えば、この気付きを幸せに変える絶好の機会、とも言える。
例え、選べる選択肢がなくても、だ。
いや、この選択肢が何れくらいあるか、を知るのが比べることの本質だ。
数ある選択肢の中でより良い方を選ぶ、それが比べることなのだ。
選択肢のない人生、というのもあるだろう。
しかし、この選択肢のない、というのも考えようによっては選択肢があるとも言える。
何故なら、私は選択肢のない中で自分の中で捉え直し、感じ直し、考え直すことは十分に可能だからだ。
立ち返る、というのも技術の一つだ。
「私」の自意識を追求すれば、どうしてそう感じ、考えたのかは無限に広がる。
また、専心できると言えば幸せだし、自由がないと言えば不幸せとなるが、選択肢がないこと自体は事実でしかない。
そして、この人生の選択肢も「私」の変化と伴って変わっていく。
子どもの頃にできたことや大人に成ってできることは違う。
関わり合いの中でも選べる選択肢は、関係性の変化に伴って変わっていく。
再三述べるが、比べること自体は技術であり、方法論でしかない。
比べる技術の習得には「私」の基準を明確し、目的や状況に即して変えていけば良い。
そうすれば、自ずと幸せになれる。
1-5、軸は幾つか持ち合わせた方が良い。
では、如何にして「私」の基準を明確にし、目的や状況を即して変えていけば良いのか。
まず、「私」の基準、軸を据えることが肝要になる。
ここでは何を幸せの軸とするのか、を探ることを指す。
軸について書く前に絶対的な「私」と軸は違う、ということを断っておく。
解釈の仕方によっては同じではないか、と考える人もいるかもしれない。
しかし、当記事において絶対的な「私」と軸の明確に違うのだ。
前述した通り、「私」は変化する。
時間の経過によっても変わるし、関わる人や場所によっても変わる。
絶対的なものであるならば、変化しないはずだ。
軸とは、何を重きに置いているのか、ということだ。
私で言えば「楽しい」かどうかに重きを置いている。
この「楽しい」と感じている主観を持っているのは「私」である。
軸を定めているのは、その都度の「私」だ。
子どもの頃の私であり、歳を取った私だ。
内にこもっている私であり、外に出ている私だ。
ここで私の場合、「楽しい」の軸はその名称は変わっていない。
しかし、「楽しい」の内容は変わっているだろう。
それもそのはずで、「楽しい」と感じている「私」が変わっているのだから。
子どもの頃に楽しかったことと、歳を取って楽しいことは同じではないだろう。
内にこもってする楽しいことと、外に出てする楽しいことも違うだろう。
軸自体は同じだが、その評価を下しているのは、そう感じた「私」だ。
何を以て「幸せ」と判ずるのか、その基準を考え、決めようと私は言っているのだ。
そして、ここも勘違いされる方もいるかもしれない。
「幸せ」の基準は数字にしても良いし、しなくても良い。
私の場合は、「私が楽しいと感じるかどうか」に軸を置いている。
故に、私がちょっとでも「楽しい」と捉えられ、感じられたなら、それは「幸せ」だ。
幸せの幅がとても大きい、と考えてもらえれば良い。
数字にして分かり易くしたい、というものあるだろう。
「数字を出す」ことがその人の幸せの軸ならば、それで良いのだ。
その人が定めた軸を元に幸せを追求すれば良い。
問題は、軸の評価で不幸せと判じてしまうような状態になった時だ。
どう摺り合わせても、不幸せとしか言えない状況はある。
私は前述に以下のことを書いた。
お金の幸せ、関わりの幸せ、未来への投資の幸せ、それぞれ個別に基準を変えて考えれば良い。
即ち、基準となる軸を幾つか持ち合わせれば良い。
軸を1つしか持っていないと、その軸が絶対性を帯びてしまう。
幸せの形は1つではない、それは1つの人格、1人の人間であっても同じことが言える。
私の場合は、私の人生哲学を7つ定めた。
7つの軸である。
これを以て、私は私の人生を定めることができる。
7つは多いかもしれないが、3つの軸があった方が良い。
考えれば、意外と見付かるものだ。
幸せの奥行きが深まって、人生が豊かになる、比べることの良さである。
1-6、くらべる論のまとめ。
以上を以て私の結論は以下のようになる。
くらべることは変化する「私」をより良い方向に導くための技術だ。
今までのことをまとめる。
・比べることを良くないという人は、「傷付きやすい感受性」の人だ。
・比べること自体は、技術である。
・「私」という実像は曖昧である。
・絶対的な幸せではなく、相対的な幸せを目指す。
・不幸せも相対的であり、選択肢がないことは不幸せではない。
・何を軸に据えるかが重要だ。
・軸は3つあった方が良い。
参考になるならば、幸いだ。
2、蛇足。
今日は5月7日だ。
令和になって1週間が経った。
この書き始めが4月30日なので、随分と塩漬けされている。
実は、大体の内容はすでに書き上げていた。
何となく下書き保存したら、掲載するタイミングを逃した格好だ。
ここまで書いたのに上げずに残す間抜けな私だ。
更に付け加えるなら、「くらべる論」を書くつもりではなかった。
いや、この記事で書くつもりはなかった、というべきか?
何故なら、この記事は1万文字を目指しているからだ。
別に1万文字を目指さなくても全然構わないのだが、前回、良い感じに1万文字が書けたので、もう一度書こうと考えたのだ。
前回はそれなりに時間があったので、たらたらと書こう、と考えていたのだ。
しかし、たらたらと書こうとしたら、しっかりと意見を書いてしまい、あららと間抜け面を浮かべている次第だ。
このまま掲載しても構わないのだが、今日5月7日もちょっと時間がある。
元々、1万文字を目指していたし、書いておこう。
壮大な蛇足だが、ある意味でここからが本番であり、蛇足こそが本来の目的だ。
2-1、「くらべる」表記について。
さてさて、何を書こうか。
「くらべる」表記と「比べる」表記の違いでも書こうか?
いや、特に理由はないのだが、私の意識の問題だ。
「比べる」と表記でより柔らかい印象があるから、ぐらいの意識だ。
さらっと読み直してみたが、使い分けが全然できていない。
ただ、何となく「くらべる」ことは「比べる」より進んだ意識でありたいな、と考える。
いや、本当にそれだけなのだ。
あれだけ偉そうに書いておいて、そうした表記は曖昧だ。
重箱の隅を突かれたら、あっという間に馬脚を現す間抜けだ。
2-2、仕事の話。
全く関係ない話だが、仕事場でいきなり怒鳴られた。
その人は短気な人であるのは知っていたが、「ちんたらするなよ!」と打ちまけられた。
こちらとしては、結構、頑張っているつもりなのだが、「つもり」ではやはり伝わらない。
お陰で、ここ数日はその人と作業するとき、少しパニック気味だ。
動きが粗雑になっている気がする。
私は人に怒鳴られると萎縮してしまうタイプの人間で、怒鳴られると仕事に手がつかなくなる。
仕事にならないと反って仕事が遅くなるので、怒鳴られる前に仕事を片付けようとする。
そのため、いつもより早め早めで動いているのだが、気持ちとしては一杯一杯だ。
幸い、今のところ上手い具合に処理はできているので、後は慣れるだけなのが救いか?
今日まで掲載しなかったのは、そうした余裕のなさも一因にある。
直ぐに許容量が一杯になるのは、もうそういう仕様の人間なのだ、と諦めている。
夏になったら、楽になれば良いな、と遠い目をして居れば良い。
2-3、島根県での観光について。
5月1日から5月3日までは島根県に行って来た。
Facebookで「島根県立美術館」のページが目に入ったからだ。
きっかけなどその程度で十分なのだ。
正確には、1日の午後から移動して、2日の9時頃に島根県にいた。
「島根県立美術館」は10時開館だったので、湖畔をしげしげと歩いた。
昨晩までは雨であったのに、その日は晴れ渡って、観光日和であった。
10時の開館で中をぐるっと鑑賞した。
企画展「開館20周年記念展 堀江友聲-京に挑んだ出雲の絵師」も観た。
堀江友聲の絵は、あまりの緻密さに感嘆の声が漏れっ放しであった。
些細なことなのだが、島根県立美術館の絵画の横の説明書きが必死感があった。
堀江友聲で言えば、「〜唯一の作」がよく目に付いた。
貴重なのは分かるが、そこまでゴリ押ししなくても良いのではないか、と感じた。
あと、ミュージアムショップがパッとしない。
少なくとも、私が欲しい感じのはなかった。
というのも、展覧会で良いな、と感じた作品関連の商品が1個もないのだ。
せめて、堀江友聲関連の商品を作れば良かったのに、と考えた。
とは言え、採算が取れない、とか大人の事情があるだろう。
故に、些細なことで、私が気になっただけの話だ。
それから、午後に「足立美術館」を観に行った。
島根県の風土なのだろうか、ここでも説明がくどい。
いや、日本一の庭園と謳うだけあって、美しいかったのは間違いない。
私個人としては、新館の絵画が面白かった。
平成の作、現役の作家さんの絵が展示されているのだ。
現役の作家さんを美術館で展示するのは珍しいように感じる。
どの絵もとてつもなく巧い。
観ているだけで、高揚してくる。
こういう絵が一枚家に欲しい。
と同時に、何れも同じように見える。
さっきと同じ作家さんかな、とプロフィールを見て、全然違う人で驚く。
特に人物描写は皆、同じ顔立ち、同じプロポーションだ。
これがアカデミックというものだろうか、と考えた。
人を圧倒するだけの技巧と緻密さがあるのに、個性がない。
もっと雑味があっても良いのに、と雑味しかない人間は考える。
閉館時間まで鑑賞した後、銭湯に入って、夕食を食べた。
そして、近くの道の駅へ向かった。
しかし、予定していた道の駅2つとも駐車スペースが埋まり切っていた。
仕方なしに鳥取県まで足を伸ばす。
島根県に来て、鳥取県で休む。
何となく、不義理に感じるが、停まれる場所がないのだから仕方ない。
早朝には直ぐ島根県に行った。
ある意味で本命、「出雲大社」だ。
7時に着いたが、すでに人がごった返していた。
流石の「出雲大社」だけあって、社も立派であった。
因幡の白兎に因んで、うさぎのモニュメントがそこら中にあった。
因幡は鳥取県なのに、島根県の方がうさぎの像が多いのがツボであった。
参拝の仕方が私の知っているのと違った。
2礼4拍手1礼であった。
出雲式、なのかもしれない。
10時ぐらいまで参拝した後、昼食を食べようと通りに出たが、何処も行列になっていた。
晴れ渡った晴天は、熱射地獄へと変わって、私を苦しめた。
名前を書いた順に呼ばれることが分かったので、ささっと書いて、裏通りに行った。
メインストリートは人のごった煮だったのに、裏通りはひっそりとしていた。
そこにチョコレート専門店を見付けた。
さくっと中でチョコレート3種類を買って、表通りに戻った。
戻ると丁度順番だったので、店内へ。
出雲蕎麦が有名らしいので、それを注文した。
食べ方が、重なった器に上からめんつゆを注いで薬味を入れて、食べ切ったら下の器に上の器の残りと継ぎ足しをしてを繰り返していく変わった食べ方だった。
蕎麦はささっと食べるのが流儀、と私より先に入った人より、先に出た。
時間を見るとまだ少し観光できそうなので、案内板にあった「命主社」へと行った。
「命主社」まで人がまだらで、道を間違えていないか、一度案内板を確認してしまうくらい人とすれ違わなかった。
住宅地の細道に「命主社」があった。
そして、ムクノキの大樹があった。
エグいまでの存在感だった。
島根県にまた立ち寄ることがあれば、「出雲大社」よりもこの「命主社」に来たい、と考えるくらいには好きな場所だ。
こじんまりとしているが、天衝く大樹がどっしりと構える雰囲気が最高だ。
大樹好きとしては再訪する場所としてリストアップせざる得ない。
そんなこんなで島根県を満喫した。
2-4、蛇足の終わりに。
おや、どうやら1万文字を書き尽くせそうだ。
4割方が蛇足という、謎仕様ではある。
前回は一貫性があったが、今回は迷走している。
1万文字は書けるが、しっかりと軸に沿った文章は難しい。
いや、軸も幾つもあれば良いではないか。
当ブログは詰まらない記事を書くことを是としているのだから、内容が悲惨でも書き果せれば良いのだ。
私にとっては「継続すること」がまず第一の軸だ。
その他に「詰まらないことを延々と書く」もあるし、「考えを深めたい」欲求もある。
逆に考えれば、全部詰め込んだ贅沢尽くしではないだろうか?
おお、そう考えれば、良い記事を書けた。
少なくとも、私にとっては。
この記事が他の誰かにとっても良い記事であれば、尚、良い。
1万文字は今後も書いていこう。
慣れれば、書き方も分かってくるだろう。
少しくらいパニックになろうと、必死に「これが唯一の作」と宣おう。
雑味しかない裏通り、大樹のようなエグい存在感を醸したい。
嗚呼、完全な蛇足だが、これが私の幸せだろう。
最後に良い気付きを得て、一人ご満悦だ。
最後に、駄文蛇足を読んで下さった皆様方の幸福を見付けられることを願う。