ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

私の考える普通の中にある異質を楽しむ。

友人に新しい質問をされた。

曰く、スカートを履くのはどうしてなのか?

「普通」に成りたいと願っていたのに「異質」な行動をするのは何故なのか?

 

質問されて、はたと気付く。

確かにその通りだ、整合性がない。

しかし、私の中で問題になってなかったということは、私の中で整合性があったのだろう。

 

今回はその点を言語化して説明してみた。

次いでに当ブログでも記録しておく。

さて、私の内面に踏み入れようか。

 

まず、私は自分の感覚を頼りに生きている人間だ。

私の感覚として「あ、良いな」というのを起点に行動している。

行動した後に「何故そう感じたのか?」を言語化して、思索している。

 

「後で考える」がの基本行動なのだ。

理由付けは後付けになる場合がほとんどだ。

その瞬間はそう感じた、私の琴線に触れた部分を言葉に置き換えるのは感じた直後ではなく、幾日か経ってからだ。

 

専門学生時代、或る冬に「色のある服装をしよう」とユニクロで青緑のダウンジャケットとオレンジのニット帽で長野市まで電車に通っていた。

その時は確か手元にあった靴が明るい色だったから、「じゃあ合わせて明るい色を買おう」とふと感じた。

当時は「若者らしい」感じにしたかったのかもしれない。

 

当時を振り返ると「らしさ」というのに拘っていたような気がする。

いつもの私とは違う、「若者らしい」というのを外側から入っていたのかもしれない。

実際にはそこまで考えてはおらず、「何か明るい色にしてみよ」と軽い気持ちで買い、着て、電車に乗った。

 

それで、自分が明るい色の服装で電車に乗ってみると周りが黒や茶色ばかりなのに気付いた。

老若男女、皆申し合わせをしているのかと思うほど似たような色合いだった。

私はその事実に衝撃を受けた。

 

もっと世間はそれぞれがそれぞれの好みの色を着るものだと考えていた。

しかし、長野市に向かう長い道中、みんな似たような色合いになっていた。

私自身も明るい服装を着る前は茶色と黒だったから、そこから一歩引いた景色は新鮮だった。

 

こうした気付きがあったから「周りと違う」格好というのは、私にとって「どういう風に違うのか」を気付くきっかけになっている。

普段見ている景色も見方を変えれば驚きがある。

この経験が「くらべることは良いこと」という考えになった。


服装の変化は、私の心理的ハードルさえ乗り越えれば、手軽にできる。

周りとくらべて気付きは私に驚きを与えてくれる。

今まで気付けなかった身近なことに気付けることが、私には楽しく感じるのだ。

 

最初は、劇団内で女性メンバーが「女子会に参加したいならスカート履いてきて」とジョークを飛ばして。

ふと、「今の時代、男がスカートを履いても良いか」と感じた。

感覚として「今の時代なら良いよな」と感じたから買うと決めた。


実際にスカートを買って履いてみると、色々な気付きがあって楽しかった。

スカートだけでは着れない、箪笥の中に合わせられる服がない、靴のサイズが見付からない。

そして、私自身が意外とスカートが似合うようなのだ。

 

また、女性陣と話す話題が中々なかったのだが、「スカート」という話題から会話になる。

「私に着て欲しい」と向こうからスカートの話題が出たり着なくなったスカートを頂けたりする。

スカートの着ることで、人との繋がりが生まれるのが嬉しい。

 

瀟洒な服を着る楽しみというより、「スカート」という選択肢があることで驚きや気付きに繋がるのが楽しいのだ。

スカートという選択肢があるお陰で一日の楽しみ方の幅が拡がった。

よって私にとってスカートは「楽しいを拡がる選択肢の一つ」としてのツールなのだ。

 

では、スカートを履くのはどうしてなのか?

35歳の男性が嬉々としてスカートを履くのは明らかに「異質」なのではないか?

何度も「普通」に成りたいと口にするのに何故「異質」な行動をとるのか?

 

スカートを買う前、私はスカートを買うのに女友達を召喚した。

理由はショップでスカートを物色するのは変質者のような印象があったから。

心理的ハードルは当時しっかりあった。

 

客観視して35歳男性がいるのは不審者だろうという意識が強かった。

一人で女性コーナーを彷徨くのは気が引けた。

「男性が女性物売り場でスカートを買うのは良くない」と感じていた。

 

私の固定観念は古く、昭和的価値観が出る時がある。

「男性が女性物売り場でスカートを買うのは良くない」はその一例だろう。

それでも、「買おう」と決めていた。

 

客観視すると「男性が女性物売り場でスカートを買う」は明らかな異質な行動だ。

しかし、「普通ではない」と言われても疑問に感じる。

確かに「男性が女性物売り場でスカートを買う」のは明らかに「異質」だが、それは古い価値観だ。

 

令和の時代、ジェンダーフリーの時代だ。

私がスカートを履くと決めた理由をもう少し言語化すると「今の時代なら男がスカートを履くのは「普通」なのでは?」と考えたから。

そう、私の価値基準として「私がやる気になる方向で私なりに「普通」の基準で行動している」のだ。

 

「普通」は大多数の人間が持つ意識の総体だ。

この「普通」は普遍的ではない。

時代、地域、関わる人、状況によって目まぐるしく変わり続ける。


変化し続ける世の「普通」という一般的な感覚が分からない。

「普通はこうだよね?」と言われても「そうなのだろうか?」という疑問が先にくる。

「普通」に成りたいと考えても「普通」に成るためにはあまりに世の中が広すぎて、具体的行動がイメージできない。

 

そして、その具体的行動を考えるためのやる気も全く沸かなかった。

「普通」に対して疑問を感じてしまうから、どうしてもまともに取り組もうと思えない。

そうした一般的な「普通」に成れないことだけは分かるから、私は誰しもが疑わない「普通」が怖い。

 

指摘されて初めて「あ、「異質」だったのか」と気付く。

私の考える「普通」の中にある「異質」は、軌道修正してまで止める理由がない。

周りの評価は私の耳に届くが、周りから強く止めろとは聞こえない。

 

「私らしい」のであればこのままで良いか、と考えに落ち着く。

「普通」への過度の恐怖に対して、「異質」に対しては無抵抗な部分があるのは私の性質かもしれない。

一まとめにするならば。

 

私の考える普通の中にある異質を楽しむ。

 

諦念して生きることを根差して随分経つが、「普通」からは遠ざかってしまって物悲しい。

ただ、「異質」によって得られた「新しい気付きや次への繋がり」という楽しみが上回っている。

鳥瞰して、トータルで良し、と朗らかに人生謳歌しておく。